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京の茶室



【その8】茶の道具/扱いにみる日本の精神(こころ)


私がお茶に興味を持ったきっかけというのは、まず私が無類の道具好きであることにはじまります。道具に目覚めたのは、ひな祭りのお飾りでしたね。それ以来、いまだに文房具から台所用具、大工道具までもうそれはそれはいろんなものを一揃え持っていますし、ふと街角で気に入った道具に出会うと、もう全種類欲しくてたまらなくなり、買い込んでしまうと言う始末。


茶の道具 まぁ、そんなわけで当然のように、趣味の極みと言うのでしょうか、自然に茶道具にはまっているわけなんです。茶筅さえあれば、お茶はたてられるというのに、さまざまなお道具が暦ごとに多種多様に、揃っているのがまた、道具マニアにとっては危険な要素なんですよね(笑)。しかし、私はまだまだ目が効きませんので、普段使いには、そのものの価値でなく、自分の手やからだになじむものを用意しています。


茶道がはじまって、一番変化を続けているのもお道具でしょうね。そして、茶人の好みが一番反映されているのも、お道具なのではないでしょうか。大茶人と世にうたわれる方は、かならずといっていいほど、自分好みのお道具をコレクションしたり、新しいお道具使いをされているんです。ですから、お道具のお好みを拝見していると、その方の心情に触れるようなせつない思いにかられるものです。


たとえば、単純にはポットからおどんぶりにお湯を注ぎ、茶筅を使えば、お茶はたてられるんですが、そこに幾重もの作法があることによって、そのお茶がどれほどにおいしくいただけることでしょう。


じつは、私は毎朝お茶をたてるようにしてはいるのですが、どうも台所でシャカシャカしたものは、思わずミルクを入れてゴクゴクとやりたくなるんですよね。ところが、お茶室でさまざまな美しいお道具を介してたてられた一服のお茶には「品」というものが、備わっていて、口に含んだ瞬間に精神(こころ)が清らかになるんです。


これは、本当に不思議なんですが、どうも、お道具やお作法を拝見していただくという精神的なものが多大に影響しているようなのですね。よく、京都のお寺やお庭を拝観すると、お抹茶付きというのがあるんですが、奥の方からお盆にのせられて、出されたものってほんとに申し訳ないくらいにおいしくないんですよね。なんだかものすごくうやうやしくて、さっさとその場を立ち去りたくなるような威圧的なかんじがしたことはないでしょうか。お茶をたてられる作法や、お道具を拝見していないからなんでしょうね。それはきっと、すました料亭よりも、割烹でカウンターに座り、目の前で調理してくれる板前さんとコミュニケーションとりながらいただく京料理がおいしく感じられるのと同じ感覚なのではないかなと思います。おいしいお店では料理人は皆、とても大事に道具を使っておられますし、道具さばきも美しいものです。


茶道では、会話は少ないながらも、つねに独特の間をもって、心と心のコミュニケーションがお道具を介して交わされます。お道具を選ぶところからもてなしの精神(こころ)がこめられているのです。だからこそ、客の方も、それに応えるかたちで、お道具の拝見という作法もあるのですね。お茶の道具は、心を満たしてくれるものです。みなさんも、お気に入りのお道具を揃えてみませんか。


京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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