以上の事例のような、恋人みたいな異性一人だけを迎えるインフォーマルな宴には、空間に特別なつくりは要らない。しかし数人の客を招き、酒に食事が伴うややフォーマルな宴にはもてなしの舞台としての空間の支えが必要になる。
と言っても「こういう形でなくてはならない」というはっきりした形式があるわけではない。しかし食事を伴う場合でも、客を最初から食単に導くと、芝居の幕がいきなり上がってしまう感じで宴のプロセスが単調になる。第一、複数の客は定刻びったりに揃って現われるものではない。先に到着した客をバラバラに食単に座らせるとさまにならないし、座った客も、後から着いた客も落ち着かない思いがするだろう。そういう事態を避けるためには、客をまず食卓と別の場所に導き、そこで食前酒をふるまって全員の顔が揃うまでの時間を宴の序曲として演出するのがいいだろう。だんだんに集まってくる寄の中に初対面のひとが居れば、ここで主が客を相互に紹介し、名刺交換なども済ませておくと、食事に移ってからの会話も滑らかになる。
茶事の場合でも、正式な茶会では、茶室の前に待ち合いにという席があって、そこが序曲の場となる。欧米でも日常的に大勢の寄を招いて宴を催すような大邸宅では、食堂に隣接してパーラーと呼ばれることの多い前室があって待ち合いの役割を果している。
そういう状況は例えばヒッチコックの名作『汚名』(Notorious 1946)でも見られる。この映画のヒロイン、アリシア(イングリッド・バーグマン)はアメリカ政府の特務機関の指令で、かねてから彼女に惚れていたナチの大物スパイ、アレックス(クロード・レインズ)と親しくなり、彼の家で催される晩餐会に招かれる。彼女はまず玄関ホールで出迎えを受け、暖炉のあるパーラーに通される。そこでは先着した数名の客が立ったまま食前酒を飲んでいる。アレックスとその母が、アリシアをその人々に紹介し、挨拶が済んだ頃を見計らって、執事が「Dinner
is served, madam」と声をかけ、食堂へ通じる扉が開かれる。ここでアレックスの母親がそれぞれの席を指示し、一同はそれに従って着席する。客の席を決めるのはもてなし側、とくにホステス(これは日本語の普通の文脈の水商売の接待係の女性ではなく、本来、もてなす側の「女主人」としての責任と権威を備えた役割のことである)の権利であり義務でもあるので、この母親がその役目をテキパキと果たし、客もそれに従うので、日本ではありがちな、食卓のそばに来てから上座をゆずりあう儀礼でモタモタすることがないのも興味深い。同じヒッチコックの『泥棒成金』(To
Catch a Thief 1955)には、男二人だけの小宴ながら食事の前の序曲がきちんと設定された例が見られる。引退して南仏のリヴィエラで悠々自適の日々を送っている宝石泥棒のロビー(ケーリー・グラント)に、保険会社の調査員、ヒュースン(ジョン・ウィリアムズ)が、昔のロビーと同じ手口で頻発する宝石盗難事件の捜査に協力してくれと頼む。そこでロビーはヒュースンを自宅へ昼食に招くのだが、まず二人はリヴィエラの蒼い海を見晴らすバルコニーの手摺に腰掛けてシェリーを飲み、そこで事件の槻要を話し合う。やがて家政婦の「Le
dejeumer est servie!」という呼びかけに応じて、同じバルコニーの少し離れた位置に据えられた食卓に客を導くと、ヒユースンは「仕事の話は食べてからにしましょう」と言い、家政婦の得意の料理のキーシユ・ロレインとワインを楽しみだす。どうでもいいことだが、この食卓の脇には赤ワインが凡人の常識に反してアイスパケットに冷やされている。私は日常飲むワインを赤でも白でも冷やしているが、それはまぁそこそこの品だからで、ロビーのような食通が飲むワインはかなり上物だろうから、ちょつと解せないのである。
このようにして、食前酒と食事の場を分け、時間の経過に応じて空間も移動することでシークエンスが生れもてなしが滑らかに、かつ変化に富んでくる。そんなこと言ったって、狭い日本の住宅にパーラーも見晴らしのいいバルコニーもないよ、と思われる方もあろうが、この話のポイントは、いきなり食卓へ導かないで宴に序曲の場を作ることにあるので、それ専用の場所は必ずしも必要ない。現在の日本の標準的な住宅なら、客をまず居間に招き入れ、食前酒もシェリーなどと気取らず日本人独特の「とりあえずビール」にして、ポテトチップでも出しておけば、宴の序曲の役割を十分に果すことだろう。

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