TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第6回 新撰組と鳥羽・伏見の戦い(2)
鳥羽離宮(秋の山) 鳥羽離宮跡(全景)
かつて、三橋美智也が絶唱した「ああ!新撰組」には、 「恋も情けも矢玉に捨てて、いくさ(軍)重ねる鳥羽伏見、ともに白刃を淋しくかざし、新撰組は月に泣く」 という歌詞があるが、京の町では敵を震え上がらせた新撰組の白刃も、銃火器を中心とする組織的な戦闘では如何ともし難く、「刀と槍では、戦はできんのだな」と土方が吐き捨てるように言うのも無理はなかった。 翌4日の戦いも東軍の苦戦が続き、仁和寺宮征討総督の掲げる錦旗が、下鳥羽横大路附近に翻るに至って東軍は賊軍と見なされ、淀に向けて敗退を余儀なくされた。 5日には、勝ち誇る西軍に対して、鳥羽街道「愛宕茶屋」附近では見廻組と桑名藩が、宇治川堤防「千両松」付近では、新撰組と会津別選隊が最後の白兵戦を挑んだのである。 このあたりの地形は、右手は横大路の湿地帯、左は宇治川が流れ、兵力の展開が出来ない場所であり、一本道の堤防上を進撃してくる長州奇兵隊にたいして、堤防下に待ち構えた新撰組と会津別選隊が猛烈な斬り込みを敢行し、一時は敵を潰滅状態にまで追い詰めたが、薩摩藩の銃隊が応援に駆けつけるに及んで遂に力尽き、後退のやむなきにいたった。
鳥羽伏見戦役弾跡 千両松戦跡碑
新撰組を始めとする前線部隊は、首脳部の弱気を無視してここでも果敢な抵抗を行ったのだが、大勢を挽回するまでには至らなかった。それに追い討ちを掛けるかのように、淀川北部沿岸を守備する藤堂藩が西軍に寝返り、対岸から砲撃してきたのである。 事ここに至っては万事休すである。東軍は全軍大坂城へと撤退するのであった。しかし大阪城周辺には東軍の予備兵力が健在であり、大阪湾には開陽丸を旗艦とする4隻の幕府海軍が制海権を確保しており、総帥の徳川慶喜はあくまで抗戦するという意思を全軍に布告したのである。その慶喜が深夜、幹部数名とともに開陽丸に乗船して江戸へ逃避したのである。最高指揮官が戦闘部隊を置き去りにして戦線を離脱したのである。慶喜の真意については様々な観測がなされているが、こうなっては全軍崩壊するのは当然である。
土方 歳三
慶応4年1月14日、富士山丸は品川沖に錨をおろし、15日、44名の隊士は無事江戸の土を踏むことができた。その後、新撰組は「甲州鎮撫隊」という名称で、甲府城に結集して官軍と一戦を交えることとなり、3月1日、あらたに募集した隊員を含めて167名が江戸を出発したのだが、江戸に着いた時の隊士のうち十数名が隊を離れ、京都以来の同志はわずか27・8名に過ぎなかった。3月4日、すでに板垣退助率いる官軍が甲府城に入城しており、5・6日の戦闘で鎮撫隊は総崩れとなって江戸へ逃げ帰った。 その後、近藤と土方の意見の相違や、その他古参隊士と近藤との意見の衝突などがあり、さら武州流山での近藤の逮捕・処刑や、江戸での沖田総司の病死等々、かつての新撰組では考えられないような非運が連続した。しかしあくまで官軍に抵抗する覚悟の隊士たちは、それぞれ別行動を執りながら、会津若松・仙台、函館五稜郭まで戦い続けるのであるが、五稜郭での榎本軍の降伏、またその前日の、自ら死地に赴くような土方歳三の戦死を最後に、残る隊士たちは、自らの運命に従ってそれぞれの人生の終幕を迎えるのであった。
浪士隊に所属した近藤勇以下、後の新撰組の同志たちが入洛した文久三年(1863)2月23日から、鳥羽伏見敗戦の慶応4年(1868)1月6日までの1777日間の京洛の地における新撰組の活動は、京都守護職に所属する「治安警察部隊」としての職責を充分に果たしたものと言っても過言ではない。もちろん、その苛烈なまでの内部粛正や、反対勢力にたいする容赦ない殺戮弾圧行動については、多くの毀誉褒貶が渦巻いたことは事実である。 しかし、秩序やそれを守る法令や法規が完全ではない当時の激動の時代背景を考慮するならば、幕府や徳川家を擁護せねばならぬ「治安警察部隊」としては、時に行過ぎた行動があったとしても止むを得ないのかもしれない。佐幕攘夷の思想を根底にするかぎり、討幕派との軋轢闘争は避ける事の出来ない宿命的なものであり、衰退を続ける徳川家の恩顧に応えようとするかぎり、時流に乗る薩長勢力にたいする反抗と憎悪の念は、必然的にそれぞれの隊士の信条信念となり、それを貫こうとする苛烈な闘争となって報われることのない終末へと向ったのである。 前に記した「ああ!新撰組」の3節には、 「菊のかおりに葵が枯れる 枯れて散る散る風の中 変る時勢に背中を向けて 新撰組よ何処へ行く」 と、歌われているが、正にそのとおりである。 結果論からいえば、新撰組の組織的な活動と行動は、鳥羽伏見の戦いの時に終ったといえるであろう。そのあとの五稜郭までの行動は新撰組というより、隊士個人々々の信念に基づく行動であり、非命に斃れた人も、天寿を全うした人も、報われるものはなにもなかったが、それなりに悔いの無い人生だったのであろう(合掌)。
近藤 勇