TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第5回 油小路の変・新撰組分裂と結束(2)
伊東甲子太郎は、江戸深川で北辰一刀流の道場を開いていたが、元治元年の夏に元門弟の藤堂平助が訪問、新撰組入隊への勧誘を受け、同志8名(異説あり)が11月初旬に京都へ着いた。 伊東は新撰組の参謀として、また他の同士も厚遇を持って迎えられた。慶応元年と翌2年に伊東は、近藤らと長州の動向を探索するために広島へ出張するが、このころ伊東は、幕閣や近藤の主張する長州への厳罰処置では、時局収集は不可能との結論を得た模様である。
近藤 勇
伊東らの同志は、天皇崇拝思想を強く持っており、王城の地京都の治安を守ることは新撰組と相容れる思想ながら、第2次征長の惨敗、将軍家茂の逝去と西国諸藩の激変の中、あくまで佐幕一辺倒の近藤たちと思想が乖離していった。 新撰組からの分離を決意した伊東らは、慶応3年1月18日九州遊説の旅に出る。大宰府で七卿落ちした(このころには5名)三条実美らに仕える志士らと国事について論じる一方、京では前年崩御した、孝明天皇の御陵を守る衛士を目指す運動を展開、帰京前の3月10日には伊東らに御陵衛士の沙汰書を下ろすことに成功、新撰組からの脱退へ大義名分を手中にした。 新撰組から円満な分離へと成功したかに見えたのだが・・・
慶応3年3月20日ついに新撰組から脱退して、彼らは独自の活動を展開してゆく。土佐藩中岡慎太郎、薩摩藩邸への訪問、九州や尾張への遊説、各種の建白書の提出と八ヶ月の短期間ではあったが、精力的に活動を行う。 しかし、前身が新撰組の御陵衛士は、勤皇の志士から見れば変節者と見られたり、新撰組に命を狙われたりと、討幕派、佐幕派双方から全幅の信頼を得られないうちに、わずか八ヶ月後の同年11月18日、油小路の変で組織的な活動は終わることとなった。
●伊藤甲子太郎→第2回参照。
右写真は伊藤甲子太郎暗殺現場にある「絶命の石塔」。近藤勇の妾の家にて飲酒した伊東は新撰組によって闇討ちにあい、命を落とした。
絶命の石塔
●毛内監物
奥州津軽広前藩の名家の次男として生まれ、身長五尺三寸(約160センチメートル)、細身で色白、物静かでよく書物を読んでいたという。最も新撰組のイメージから、かけ離れた青年であろう。武術に優れていたという話はなく、 御陵衛士時代にも、伊東とともに数々の建白書を奏上していたようだ。 油小路の事件では、伊東を引き取りに駆け付けたものの、たちまち新撰組の重囲におちいり斬死するが、彼は一歩も引くことなく「諸君逃げろ、逃げてくれ。」と叫び満身に刀傷を受けて斃れたという。彼の人柄が偲ばれるようだ。 明治2年に生き残った同志により戒光寺墓地で、招魂祭が盛大に執り行なわれた。弘前藩から寄進されたという石香炉と手水鉢が墓参者の哀愁を誘う。
戒光寺 毛内監物の墓
●藤堂平助
藤堂は新撰組発足当時からの隊士で、藤堂津藩の落胤ともいわれるが、眉唾物のようで、あまり信用はできない。 彼は伊東の門弟で北進一刀流を学び、その後近藤の試衛館に寄食していたことから、近藤らと共に上京、新撰組結成以来の同士であった。新撰組では幾多の修羅場も経験しているが、彼は学問もできたようである。 伊東を勧誘したのも藤堂であり、御陵衛士分離にあたって、近藤らと袂を分けることとなるが、試衛館時代からの恩義を思うと胸中は複雑なものがあったに違いない。 永倉新八の手記に、「藤堂は古くからの仲間であって逃げ道を開けて・・・」という件があるが、他の資料には見られず、ちょっと怪しい。
藤堂平助の墓
●服部武雄
事件当時(旧暦の18日)は、月明かりで家屋の二階から手に取るように見えたという。 「散々に斬り合っていたが、八人のうち負傷した二人を三人で介抱しながら逃げ去り、後に三人が踏みとどまった。中に両刀使いの者がいて、襲撃者(新撰組)の方が八、九人も手負いとなったが、遂には刀が折れたところへ総掛りで斃した。」とあるが、両刀使いの者が服部武雄である。 この事件は、庶民の評判となり翌朝は、油小路に見物人が殺到し、路上には屍の他、折れた刀と、多数の指が散乱していたという。 服部は、播磨赤穂の出身で、通称を武雄と名乗ったが、後年は三郎兵衛、実名を良章といった。 彼は剣以外にも、柔術、槍術もできたというが、新撰組時代には実戦での活躍の機会がなく、油小路での壮絶な慙死が戦闘の最後となった。
服部武雄の墓