TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第5回 油小路の変・新撰組分裂と結束(1)
19世紀中ごろには、列強の侵略はもっぱら、東アジアへと向かっていた。 清国は、英国によるアヘン戦争、4カ国のアロー戦争、ロシアの愛琿(あいぐん)条約等と、各国から侵略され、インドシナやマレー半島、インドネシアなど東南アジアも割譲及び植民地化が進んでいた。南北戦争の内乱によって出遅れた米国もアジアへの拠点作り、余剰の武器類売込みの思惑をもってアジアに食指を伸ばしていた。 このようにアジアは、列強の強力な武力の前に屈して、日本も日米和親条約以降は神奈川、長崎、函館の開港後、各国の公館が建てられた。多感な若者の攘夷運動は、京都を中心に盛り上がった。
元治元年(1864)の夏、池田屋騒動や蛤御門の変を経て、長州藩を主体とした尊皇攘夷派は一転して朝敵となり、一方活躍著しい新撰組は、幕府からその実力を認められ、京都治安の一翼を担う存在となった。 秋には隊士募集のために、東下して伊藤甲子太郎と同志9名をはじめとして、多数の剣客を入隊させ、新撰組の最盛期を迎えるに至った。 しかし時代は激動の最中である。この春、尊皇攘夷の魁水戸天狗党は、筑波山に挙兵して、上京を目指したが年末に加賀藩に投降した。彼らの処分は、翌元治2年(慶応元年)2月4日に、斬首352名という大粛清であった。幕府による尊王論者へのこの対応によって、世論は攘夷から倒幕へと流れを変え始めた。 新撰組は同3月に、屯所を壬生から西本願寺へと移している。
鎖国政策から一転、自由交易が始まり、まず輸出品の生糸が高騰を始めると、生糸加工地の西陣をはじめとして大打撃を受けた。また生糸に引きずられてインフレが発生、庶民の困窮は増大していく。 長州征伐の軍費にも事欠く幕府は、フランスに借款を要請するとともに、豪商への寄付も要請するなど、庶民の幕府に対する怨嗟の声も聞かれていた。 京を中心に、政治的駆け引きが臨界状態になると、軍隊、浪士の上京が相次ぎ、まさに一触即発状態の京にあって、新撰組と高台寺党との分裂、そして油小路の闘いが発生した。
慶応元年には、新撰組は大所帯となり京都での治安維持の中心となる。しかし本来が寄せ集めの集団であり、局中法度(明文ないが)によって彼らに一糸乱れぬ行動を求めた。 これは当初からの同志、総長の山南敬介も例外ではなかった。佐幕化してゆく新撰組に愛想をつかしたか、副長土方との思想上の乖離からか脱走を図った山南をも切腹として新撰組は組織を守った。 しかし、本来新撰組は、尊皇攘夷の魁として、将軍の警護及び京都治安を目的として上京した組織であって、同じく尊王攘夷を唱え、幕府に(表向きではあるが)恭順の意を表明している長州への再征、水戸天狗等処分、幕臣への取立打診と、取り締まる側へ回ることへの矛盾から、近藤ら主流となる公武合体の佐幕派、伊東ら一部が王政復古派へと分かれて、ついに慶応3年3月20日伊東甲子太郎以下16人が脱退(分離)して、最終的に東山高台寺塔頭の月真院に移った。
伊東 甲子太郎
月真院
あくまでも幕府権力の回復を目指す新撰組は、老中小笠原壱岐守長行から徳川直参の打診を受けて、慶応3年6月10日をもって幕臣となった。 このことは、尊皇攘夷を誓った同志の中に上下関係を生むこととなる。また攘夷を目的として脱藩し、新撰組に入隊した浪士にとって、元藩主以外の主君に仕えるのを良しとせず、新撰組脱退を直訴した茨木司ら4名が切腹(斬殺説もあるが)する事件も発生した。 同じく22日には、新撰組を脱退した武田観柳斎が、殺害された。「脱退者には死を」、局中法度は生きているという緊張を御陵衛士に与えたことであろう。 大政奉還があって、約1ヶ月が過ぎた11月18日に油小路の変が発生した。2日前には坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺と、京ではギリギリの政治闘争と平行して若者達による惨殺事件が多発、京の町は大忙しである。 しかし、新撰組から見ると、組織を守るためには必要な行動であったのだろうが、この期に及んでここまでするかという気がしないでもない。