TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第4回 池田屋事変を実証する(2)池田屋への道(4)


  1. 幕末京都の治安と新撰組の諜報網   6. 桂小五郎と池田屋
           
  2. 古高は自白したか?   7. 池田屋事変の顛末
           
  3. 祇園会所へ集合   閑話休題「幕末頃の祇園町」
           
  4. 会津や所司代の出動遅れの理由    
         
  5. 祇園会所から池田屋への道を歩く    


桂小五郎寓居跡碑、木屋町御池上る




 池田屋事件の発端となった過激派浪士の企てですが、そもそも桂は過激な計画には反対の立場であったといわれています。池田屋の集会へは自分自身が出席せず、何名かの腹心を派遣したと言われています。特に桂が心配したのは、古高の自白により長州藩と有栖川宮との関係や、長州藩が関係する人々に累が及ぶ事ではなかったでしょうか。
 『木戸孝允文書』に書かれた池田屋の事を述べている部分では、どこか後ろめたさがありはっきりと述べてはいません。木戸の他にも同夜、池田屋に居て運良く逃げ延び、明治になってから政府の高官になった幾人かもこの事件の話になると口が重かったといいます。多くの同志を失い、逃げたことは別として、助かったことが負い目になっているのかもわかりません。取り合えず木戸は自分の代わりとして派遣した人物が殺害されたことも原因して、言葉を濁し、池田屋へも一度は尋ねたと書いているのではないでしょうか。




 この様に考えて見ますと、古高は、断片的な陰謀計画は知っていたとしても会合場所までは「知らされていなかった」か「知らなかった」が,真相ではないでしょうか。発見された武具や武器類は僅かであったと言われています。元々古高は古道具屋であったことから、若干の武具類があってもおかしくありませんし、また池田屋の事件で斬死した武具作りの大高忠兵衛から預かったと述べていることからも、古高がクーデター計画に直接関与していなかった可能性もあります。
 池田屋の事変後、千本三条あたりの商家で大量の武器類が発見されています。これは西高瀬川の水路を利用して搬入された可能性があり、古高の預かり知らぬところで計画が進んでいたものと考えられます。



三条小橋(現在)



 新撰組に関心のある方は池田屋で倒れた志士たちや、出動した新撰組の隊士もよくご存知のこととおもいます。多くの映画やテレビ、小説等で描かれ、その戦闘場面は様々な形で描かれています。
 近年は続々と新しい資料が発見され多くの人々によって発表されています。初期の西村兼文氏から子母澤寛氏や平尾道夫氏等が小説や研究書を発表され、司馬遼太郎氏の小説によりさらに多くのファンを獲得し関心も呼んで、池田屋での戦闘場面が華々しく描かれています。





 
その戦闘場面で、いくつか気の付いたことを書いてみたいとおもいます。祇園祭りの季節は夏であることから、戸を締め切っての会合や飲食は非常に辛いものがあります。戸を開け放つなど、探索方が発見し易い状況であったと考えられます。想像を膨ませますと、木屋町周辺を捜索中に浪士の集合場所発見の知らせが近藤隊にあり、近藤は隊員が少ないこともあって、切り込む前に池田屋の間取りや周囲の状況を聞き込み、頭に入れ、充分な準備をして,包囲を取る形で踏み込んだと考えられます。
 特に当時の照明の中で、ましてや建物の中では真の闇となることから、戦闘場所を選ぶ必要を考えたのではないでしょうか。




明治頃の池田屋二階



 二階での戦闘となりますと京町屋の特色で天井が低く、暗闇の中では相手が識別できず、身の危険が大であります。その点、一階土間には「八軒」といわれる行灯があったといわれ、常に照明があり同士討ちの危険が少なかったことです。永倉新八がその手記で、近藤の窮地を何度か見ている(近藤も手紙でその様なことを書いている)ことでも、明かりのある場所での戦いであったことが証明されています。そのために、近藤が「御用改め」として一喝し踏み込んだ時、池田屋の亭主が二階へ知らせに上がった。後を追いかけて近藤も二階に上がったところ多数の浪士が刀を握り締め、向かってきたため、一階に降り階段下の土間での斬り合いになったものと想像されます。
(この場面は子母澤寛氏の『新撰組始末記』の中で、階段上で近藤が北添を斬ったとして描かれていますが果たして狭隘な場所での斬り合いは可能かどうか・・)




 この事件で新撰組は奥澤栄助ほか2名が死亡、藤堂平助ほか数名が負傷を負いました。
 尊攘派志士達は多くの犠牲を出しました。肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田棯麿、土佐の北添佶麿他13名が死亡(様々な資料により異なりますが、16名ともいわれています)。32名が捕縛されました。これほど多くの死亡者や捕縛者が出たのは、遅れてきた土方隊の活躍や守護職以下の各藩包囲網による徹底した活動の結果であったと思います。
 この他、事件後数日間に新撰組を含む守護職配下の各藩は京の町に大捜索戦を展開、多くの関係する人々を斬殺、捕縛しました。とくに有名な事件は高台寺近辺の明保野亭で発生した会津藩士柴司と土佐藩士麻田時太郎との悲劇でした。

 
会津藩墓地(黒谷金戒光明寺)    



 このようにして起こった「池田屋事変」は新撰組を一躍時の主役として躍り出る舞台となりました。まさに、この事件前後が新撰組の最も華やかな時期ではなかったかと思われます。
 この事件をもって後世新撰組が悪者扱いされることとなりましたが、彼らは、彼らの職務を忠実に果たしたに過ぎないのです。京の治安を守るために彼らが果たした役割は正当化されるべきであり、勝者の論理で裁くことは許されないことだと思います。


池田屋事変死亡者墓地
岩倉花園町三縁寺

 
 

京都史跡ガイドボランティア協会提供

 
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