TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第4回 池田屋事変を実証する(2)池田屋への道(1)
文久3年2月に入洛した浪士組は3月に会津藩預かりとして壬生浪士組を結成。その直後から市中巡回を始めました。当然、会津藩からの指令で所司代及び奉行所の協力を得たものと思われます。 守護職直属ですが、後に同じ京都の治安にあたった見廻組(旗本の次男・三男で武士出身者)と違い、郷士や浪人・町人・農民出身者によって結成されていたため、見廻組より一段下にみられていました。そのいい例は屯所が置かれていた場所に見られます。(見廻組は洛内の二条城近く、新撰組は洛外の壬生村)また見廻り範囲も、見廻組は御所や二条城の官庁街、新撰組は祇園から三条や四条の歓楽街で攘夷派志士が多く出没し、テロ犯罪が多発する危険な場所を担当していました。
明治頃の祇園
会津藩は幕閣からの直接任命で文久2年12月9日に松平容保が入洛、京の治安を託されることとなりました。しかし、同時に京都所司代として任命された越後長岡藩牧野忠恭(当時、後の奥羽列藩同盟で活躍した家老河合継之助が京都詰で在京)とはうまく連携がとれていなかったようです。その後文久3年6月に淀藩稲葉正邦が所司代に就任するや、所司代・奉行所以下が守護職の指揮下に入りました。さらに、元治元年4月には桑名藩主で松平容保の実弟である松平定敬が所司代に就任し、京都守護と協同して任務遂行にあたりました。 会津藩は主として公用方が中心となり、京町奉行配下の与力、同心と共に治安の維持を図るとともに、同心の手下である目明しを使い尊攘派志士の動静を探索させていました。
文久3年3月に会津藩預かりとして壬生浪士組が結成されてからは治安の一部を壬生浪士組に分担させるとともに、諜報網の一部も任せたに違いありません。京に入って地理不案内な浪士に地元の人間を付ける必要があり、特に京・大阪の内情に熟達した目明し(江戸では岡引)を使い不逞浪士の動静を探らせていました。これが後に、池田屋事変に大きく役立つこととなりました。また、壬生浪士隊の編成表の中にも監察調査役を置いて隊士自身が市 中探索に当たっていたことも見逃せません。 このようにして京町中に大きな諜報監視の網を張ることにより、尊攘派志士の宿泊先や会合場所を序々に突き止め、桝喜・池田屋・四国屋等の成果となって現れたのではないでしょうか。
明治頃の祇園地図 ※クリックすると拡大図が見れます。