TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第3回 池田屋事変を実証する(1)古高俊太郎(3)
証拠書類を突きつけられ自白を強要されたことは間違いないと思います。その混乱の中で、中川宮・会津候襲撃の自白の可能性は否定できませんが、『烈風を期とすべし・・』という文言には疑問があります。 それを検証しますと、この時期の京都に強風が吹いたり、大火になった例は過去にありません。祇園祭の前後は梅雨時で大火になり難く、過去の京の大火は11月から4月頃に発生しています。但し、7月に発生した「禁門の変」の大火ですが、これは梅雨明けで晴天が続くのと、会薩軍や長州軍の戦争であることから数十箇所での付け火が、大火につながった例外の一つです。 京都に長く生活すれば、このような無謀な計画は考えられません。おそらく何らかの計画はあっても、この時期での計画では無かったことも考えられることから、入洛間もない新撰組が諸藩出兵の口実のために作りあげた自白書であると想像しますが如何ですか。
捕縛された古高俊太郎は「禁門の変」のドサクサに紛れ、元治元年7月20日に六角獄舎において、他の収容者32名(池田屋事件の捕縛者、生野の変の平野次郎、足利将軍木像梟首事件の長尾郁三郎、大和蜂起の古東領左衛門等)とともに惨殺されました。 処刑は20日の午後2時頃から始まり、3時間にわたって行われました。理由は、兵火の混乱に紛れ牢破りを企てようとしたとしています。さすがの会津容保も、大いに驚き町奉行所役人等を叱ったとされています。 この惨殺に新撰組が数名、関わったとされることから、何か胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか。 以上で述べたほか、当時の自白調書をみても断片的で、重要な事といえば中川宮と会津容保の襲撃を匂わせているだけで期日のども定まらず、具体的な計画も述べていません。また、誰が主犯かもあいまいで述べていません。 この様なことから、古高俊太郎はこの問題には深く関与していなかったのではないかと思います。古くからの勤皇の志士であり、思想的にも迷いの無い古高俊太郎が、彼の履歴から考えても拷問によって自白したとは到底考えられないというのが私の考えです。
最後に、古高俊太郎の墓は次の3ヶ所にあります。
●滋賀県守山市古高町 福寿院境内 古高一族の墓 ●京都市上京区出水通千本西入る 福勝寺 ●京都市東山区高台寺霊山墓地