TOP > 京都を知る・学ぶ > 新撰組と京都 > 第3回 池田屋事変を実証する(1)古高俊太郎(1)
父周蔵は当時の知識人に共通する勤皇思想の持ち主であったと思われます。古高村を含む栗太郡一帯は野洲川を中心に武家領地(旗本織田家、膳所藩、淀藩)が混在していたところで、古高一族も同地を管理する郷士階級の小役人であったものと思われます。その関係からか、父周蔵は大津代官所に出仕していました。大津代官所は現在の京阪電車浜大津駅から琵琶湖観光汽船乗り場を中心とした一帯で、元は京極高次が明智光秀の坂本城を移築して築城した大津城のあったところです。 父周蔵が勤皇思想の持ち主であったことが、俊太郎に影響したことは充分に考えられます。また、勤皇家としての息子の思想教育に力を注いだことでしょう。
梅田雲濱旧蹟碑(左京区一乗寺)
大津には崎門学派(山崎闇斎の弟子達)である浅見絅斎(大義名分論を著し、楠正成を賛美した勤皇の思想家)の三傑の一人・若林強斉が小浜藩に召抱えられ、大津で開塾して子弟の教育にあたっていました。幕末に至りその流れを汲む上原立斉に小浜藩士梅田源次郎(雲濱)が師事していました。 梅田源次郎はその後、立斉の娘「信」を娶り北国街道沿いの北保町荒神堂に私塾「湖南塾」を開きました。その塾に俊太郎は通っていました。 梅田源次郎から大きな影響を受け、勤皇思想を学ぶとともに、師友として俊太郎の勤皇思想の大成に、また幕末動乱の政治活動家への道を進む先導役としての大きな役割を果たしました。
梅田源次郎は天保14年(1843)に京都に移り「望楠軒」(堺町通夷川)の講主となるが、嘉永5年(1852)藩政や海防についての上書や過激な尊王攘夷思想から藩上層部と衝突し士籍を削られたため儒学浪人となり生活は逼迫し、居を転々としました。 父親とともに京へ出た俊太郎の住まいは堺町丸太町下で、御所に近くまた「望楠軒」に近いことから京にあっても梅田源次郎に師事していたものと思われます。
安政6年に父周蔵が亡くなり、後を継いで毘沙門堂門跡の家士となりました。山科毘沙門堂は宮門跡寺院で江戸初期に法親王が数代入寺しました。 幕末の頃は無住で輪王寺宮一品慈性法親王(有栖川家出身)が兼帯していました。俊太郎は公家に近づく方法として、漢学者大沢晩翠に師事し、大沢が烏丸光徳卿の儒臣であることから烏丸卿に歌学を学びました。また烏丸卿を通じて多くの公家との接触と交友を深めました。さらに有栖川宮の臣である人々と交わり、ついに有栖川宮の知己を得ることに成功しました。
安政5年に起こった安政の大獄により、師梅田源次郎が投獄されます。師を救出するために様々な工作を行いましたが、梅田源次郎は翌安政6年9月に江戸で獄死します。 俊太郎は師の遺志を継ぐことが父周蔵の真意であり、最後に幕府政権から公家を中心とした政権の樹立を目的にしたと思います。 そのためには幕府に対抗する武家勢力の力の必要性を考え、当時の京都政局で勤皇派として活動していた長州藩に目を付けたのではないでしょうか。
桝屋邸跡
安政の大獄時期の活動により幕吏から目を付けられていたおり、梅田雲濱と共に活動していた湯浅五郎兵衛という丹波国船井郡木住(現京都府船井郡日吉町上世木中世木)に住む郷士から「自分の親戚で木屋町四条の桝屋喜右衛門が跡取も無く亡くなり、店の財政建て直しと店を続けるために養子に入ってほしい」という依頼がありました。湯浅五郎兵衛は梅田雲濱とは同志として活動し、俊太郎とも面識がありました。俊太郎は世を晦ます意味もあって古高家を弟為次郎正裕に譲り、湯浅家の桝屋喜右衛門の養子となり桝喜を名乗り潜行して倒幕運動の活動を展開することとなりました。 桝屋は薪炭商として諸藩と広く商いを行い、特に筑前藩(黒田)の御用達を務めていました。商売柄、侍の出入りについても特に怪しまれることも少ないことから多くの志士の拠点となっていました。
特に長州藩の藩士との関係が深く、久坂玄瑞や桂小五郎らを有栖川宮へ近付け、自己の目的を図ったほか、平野国臣、吉村寅太郎、藤本鉄石らと国事を論じ、肥後の宮部鼎三や大高又次郎との交友、書簡のやり取りなど、勤皇活動家として果たした役割は大変大きく師梅田源次郎の遺志を継ぐ第一人者であったと思います。