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祇園祭を遊ぶ

平安時代に起源を持ち、時代に磨き上げられた華麗な祇園祭。その全貌をご紹介します!

祇園祭のはじまり

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祇園祭のはじまりは869(貞観11)年。当時、京の町では疫病が流行し、大勢の死者が出る悲惨な状況でした。医学の発達していなかった当時、猛威を振るったこの病を、人々は神仏に祈願することで収めようとしました。
そして国の数にちなんで66本の矛を神泉苑に立て、さらに祇園社の神輿を担いで参集しました。こうして祈祷により疫病退散を祈った「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が、祇園祭の起源だと言われています。

官祭から民衆の祭へ

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この「祇園御霊会」は、疫病が流行した時のみ行われていましたが、970(天禄元)年より毎年行われるようになりました。その後、時代が進むにつれてこの御霊会に民衆が積極的にかかわるようになり、徐々に祭りの要素が付け加えられてゆきます。
現在でも神輿渡御は祇園祭の最も重要な行事ですが、その神輿を盛り立てるべく、南北朝時代になると現在のような山鉾巡行が登場します。応仁の乱で祭りは30年以上中断しますが、その後祭りは町衆の力を背景に、加速度的に華美になっていきました。

豪華になる山鉾、消えゆく山鉾

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桃山時代、豊臣秀吉は京の都市整備をすすめました。そのとき、鉾を持たない町を山鉾の応援団ともいえる「寄町」に指定し、山鉾町とこれらの町が協力して資金を出させるようにしました。
この頃から江戸時代にかけての平和な時代、町衆が力を持つと、富裕な町衆らにより懸装品に舶来のゴブラン織や西陣織などが用いられるなど、山鉾は競うように豪華になっていきました。現在、重要文化財に指定されて残る多くの懸装品は、これらの時代にもたらされました。
世の中は穏やかでしたが、江戸時代、山鉾町は三度の大火災を受け、多くの山鉾が焼けました。とくに天明の大火のあとは、復興できなかった町、復興に何十年もかかった町など、明暗を分けるものとなりました。また禁門の変による大火(どんどん焼け)でも、多くの山鉾が被害を受け、現在も復興していない山鉾があります。

近代以降の祭

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明治時代には「神仏分離令」によりそれまで「祇園社」と呼ばれていたものが「八坂神社」となりました。それまでの寄町制度も崩壊しつつあり、山鉾町では祭りの費用準備などに苦しむようになります。また江戸時代、稚児は生稚児でしたが、函谷鉾が再建にあたって人形稚児にしたことから、他の鉾でも徐々に変更がすすみ、現在まで生稚児を守っているのは長刀鉾だけとなっています。
第二次世界大戦中は宵山提灯がつけられなくなったり、山鉾自体も建てられなくなったりと、火の消えたような期間が続きました。しかし終戦後は、昭和22年に神輿渡御とともに長刀鉾と月鉾が復活したのを皮切りに、年々、復活する山鉾は数を増していきました。
その後は道路交通事情の変化などから巡行順路が変更され、神輿渡御(神幸祭)の先祓いとしての山鉾巡行(前祭)・還幸祭の先祓いとしての山鉾巡行(後祭)と日にちが分かれていたのが、一日にまとめられるなど、時代の事情に合わせて祭りも変化しています。
山鉾町の多くは財団法人化し、祭りや懸装品についてさまざまな調査が行われるなど、これまで守り育ててきたものを、日本の文化や文化財として受け継いでいくよう、祭りの時期以外にも活動が続けられています。