TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第1回 屯所跡に残る血と汗と涙 局中法度に散った男たち(2)

1 壬生村屯所  文久3年(1863. 2.23)~  4 伏見奉行所  慶応3年(1867.12.16)~
2 西本願寺屯所 慶応元年(1865. 3.10)~  5 新撰組の粛清記録
3 不動堂村屯所 慶応3年(1867. 6.15)~
 
新撰組こぼれ話

最後の屯所となった伏見奉行所跡
 慶応三年十二月十六日に移駐してから二日後の十八日に、二条城に登城した近藤は帰途墨染あたりで高台寺党残党(篠原泰之進・阿部十郎ら数人)に銃撃され右肩を負傷。落馬もせず馬を疾駆させ奉行所に駈けもどった。
 伊東甲子太郎の仇討ちとばかり勢い込んだわりに、隊士一人、馬丁一人を殺しただけで近藤を取り逃がしたことを、のちのちまでも口惜しがったという。
 その後、二十日に傷治療の近藤と病に臥した沖田は大阪に下り、指揮いっさいを土方歳三がとることになる。
 鳥羽伏見の戦いの激戦地、淀千両松。その堤防の上に昭和の半ば頃まで小さな「幕軍慰霊碑」がたっていたそうである。そのうち京都競馬場の拡張と道路造成の為、堤防は切り崩され川は暗渠に埋め立てられた。慰霊碑は邪魔物として放り出され工事は進められた。
 が、飯場に「亡霊」が出ると大騒ぎになった。彼らはダンダラの羽織を着て、顔や手から血を流し、なぜか紫地に白く誠と染めぬいた大きな旗を押し立てていた。そして「元の所に返せ」と口々に訴えるというのだ。
   
 あまりの馬鹿馬鹿しさに現場監督が噂の飯場に泊り込んで嘘を証明しようとした。だが一夜を過ごした監督は青くなって飯場から逃げ出して、近くの妙教寺の住職に戦死者たちの法要を取り行ってもらってからは、二度と姿を現わさなくなったという。道路完成の際に新しい「戊辰役戦死者の碑」を、大体前に碑があった所に建立したという。慰霊碑のあった地点から出た骨を埋めたそうである。昭和五十年代初めには碑の回りに誠の旗がはためいていたが、今は見当たらない。
   
 世に云う「局中法度」は、昭和3年に子母沢寛の書いた「新選組始末記」にはじめて登場する。当時の新選組資料に「局中法度」という名称は見えないが、永倉新八の「新撰組顛末記」に、「禁令」と称して、1.士道に背く事、2.局を脱する事、3.勝手に金策する事、4.勝手に訴訟取り扱う事の4ヶ条があり、これに背いた時は切腹を申し付けるとある。子母沢寛は新選組始末記の執筆に当たり、歴史を書くつもりはないと断っているので、局中法度は小説の中で使われた名称と理解するのが正しい。
 しかし、峻烈をきわめた掟が存在したことに疑う余地はなく、脱走者、怯懦者(臆病者、背中傷については取調べによっては処断された)は次々と粛清されていった。



初期の粛清は芹沢・近藤派と殿内・家里派の勢力争いであった 
 
 京都に残留することになった、芹沢一門、近藤一門と殿内・家里グループあわせ24名で壬生浪士隊が結成された。そして「壬生浪士掟」なるものが決められていたのではないかと考えられる。
 結成まもない文久3年3月26日に殿内義雄が四条大橋で斬殺された。旅姿であったという。そして4月24日には家里次郎が大阪に来ていた近藤らに捕まり、切腹させられた。その他、殿内・家里派と云われる根岸友山・遠藤丈庵・神城仁之助・鈴木長蔵・清水吾一・柏谷新五郎らは離脱逃走している。阿比類鋭三郎は4月6日に病死、壬生寺に葬られている。
 結成して2ヶ月たらずの間に、殿内・家里派の全員が消えたことになり、これは粛清と云うより、方針の違いか派閥争いによるものと考えられる。
 

 
芹沢一派の乱交の数々
 
 芹沢一派ではないが、佐々木愛次郎と佐伯又三郎が文久3年8月に殺害された。原因は愛次郎と恋仲になった娘を、芹沢が横取りするために佐伯又三郎を使い殺害、そして佐伯も口封じのため芹沢らに殺害されたという。 そして、芹沢一派の粛清が続く。これは近藤・土方らの独断でなく会津藩の指示によるものと云われている。
 

新見 錦(局長)9月13日切腹
芹沢一派の粛清に先立ち、乱交の数々をあげ、詰め腹を切らせた。しかし隊記録には新見錦の切腹の記録はなく、代わりに田中 伊織の名で死亡記事と墓もあることから同一人ではないかと思われる。


芹沢 鴨(局長)9月18日斬殺

平山 五郎(助勤)9月18日斬殺
芹沢の市中乱暴の数々に、預り役の会津藩の監督評判が悪くなるのを恐れた会津藩からの粛清指示により近藤一派が暗殺。平間 重助は逃亡。

御倉 伊勢武・楠小 十郎・荒木田 左馬之輔の3名が9月26日斬殺
彼ら3名は長州の間者として処分されたというが、これを芹沢 鴨暗殺の犯人として利用したとする、司馬 遼太郎の短編小説で「新撰組血風録」の「長州の間者」は興味をそそる。

野口 健司 12月27日切腹
芹沢 鴨の腹心であったが、罪状は新撰組を名乗る偽隊士の罪を着せたといわれている。
 
 

 
内部組織を守るための粛清(元治元年・1864年6月~)

 殿内家里派・芹沢派が消え、近藤・土方体制となった新撰組は、元治元年6月5日の池田屋襲撃で名を上げ、幕府・市民の絶大な信頼を得るようにうなった。隊員も増え、更に厳しい規律のもと、組織を守るための粛清が行われた。
 
 
 

葛山 武八郎 9月6日切腹
永倉・原田らとともに近藤批判を会津藩へ訴えたことによる組織を守る為の粛清と考えられる。
同調者の永倉・原田・斎藤・島田・尾関らは結成以来の古参であることから謹慎だけの軽い処分としたが、葛山は新しい入隊で、隊内の反体制派を作らせない為の見せしめによると考えられる。


山南 敬助 慶応元年2月23日切腹
山南の死については「激烈な勤皇思想」による伊東との投合が原因か、総長という有名無実の地位による焦燥感で脱走したのか、又は組織上に問題があり土方との確執など、さまざまな原因が考えられる。
 
 
慶応元年3月10日西本願寺屯所に移り、同5月土方が江戸で
募集の53名が加わり、粛清ますます厳しく、組織強化を計る
この時期に新隊規(局中法度といわれるもの)が決められたのではないか。

瀬山 滝人 6月21日切腹
婦女に暴行した罪による。


石川 三郎 6月21日切腹
婦女に暴行した罪による。

佐野 牧太郎 7月25日断首
商人をゆすり、金策。武士にあるまじき行いと判定され切腹が許されなかった。

松原 忠司 9月 1日切腹傷の悪化による病死
司馬 遼太郎の短編小説で「壬生狂言の夜」を御覧下さい。

桜井 勇之進 12月12日斬殺
脱走ではないか。
 
 
慶応2年

河合 耆三郎 2月12日切腹
公金五十両を横領(紛失)したという罪。


小川 信太郎 2月18日切腹
理由不明。

柴田 彦三郎 6月23日切腹
金策が露見して脱走、出石で捕らえられ切腹。
 
 
慶応3年

田内 知 1月10日切腹
士道不覚悟(背後から斬られ、相手に逃げられた)との理由。司馬 遼太郎の短編小説「新撰組血風録」の「海仙寺党異聞」を御覧下さい。(フィクションとして)
~~3月20日 伊東 甲子太郎、御陵衛士として新撰組から分離する。


田中 寅三 4月15日切腹
伊東と行動を共にするという理由で脱走するが捕まり屯所にて切腹。伊東が脱退する時の新撰組との約定で御陵衛士への入隊を拒絶されていたと云われる。

矢口 健一郎 4月29日切腹
田中 寅三と同じ理由であったと云われる。

茨木 司・佐野 七五三之助・富川 十郎・中村 五郎 6月14日切腹
田中 寅三と同じく御陵衛士への入隊を図ろうとするが、伊東が拒絶したため会津藩に出向き、脱退の斡旋を請願するが聞き入れられず同藩邸で切腹する。一説では新撰組が惨殺したという説もある。


6月15日に不動堂村屯所に移る

武田 観柳斎 6月22日斬殺
伊東と行動を共にしようとするが拒絶され、別派行動をとり、薩摩に接近したともいわれるが不明。
司馬遼太郎の短編小説「新撰組血風録」の「鴨川銭取橋」を御覧下さい。


加藤 羆  6月23日切腹
武田観柳斎に同調。観柳斎の遺体引取りにきた時に襲われ、逃走中に切腹。

伊東 甲子太郎11月18日暗殺
油小路木津屋橋あたりで暗殺(油小路事件)

藤堂 平助・毛内 有之助・服部 武雄 11月18日斬殺
七条油小路に放置された伊東 甲子太郎の遺体を引き取りにきたところを斬殺。
  以上

   
 
ゑつは島原に三味線を教えに行っていた関係で新撰組とも面識があった。
 
新見 錦(にいみにしき)のことを「しんみにしき」と呼んでいた。

池田屋へ新撰組が斬り込んだ翌朝、現場へかけつけると隊士達が高瀬川の中でへたり込んでいた。(座り込む)

その後屯所へ見舞いに行くと、皆、蚊帳をつって寝ていた。
当時、隊中病人多しと近藤が手紙に書いている。ちなみに病気は性病と肺病(または脚気)が多かった。又、けが人もいたと思われる。

子母沢寛の「新撰組始末記」が昭和三年に出版され少しは新撰組の評価が変わってきたが、それまで評判の悪かった大正時代に「新撰組は悪うないんや」といいつづけ、徳川時代の政治を懐かしがっていた。
 
 ゑつの話ではないが、屯所の近くの家では、入浴のさいに子供が風呂の湯に手ぬぐいを落としたりして遊ぶと、しかられた様である。なぜなら、その音が首をはねた音に似ているということらしい。
   
1 壬生村屯所  文久3年(1863. 2.23)~  4 伏見奉行所  慶応3年(1867.12.16)~
2 西本願寺屯所 慶応元年(1865. 3.10)~  5 新撰組の粛清記録
3 不動堂村屯所 慶応3年(1867. 6.15)~
 
新撰組こぼれ話
 

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