源氏物語発見
弘徽殿(こきでん)の細殿(ほそどの)。光源氏と朧月夜(おぼろづきよ)との出逢いは、何か女のほうが仕組んだもののようだが、あの時、光源氏は「麿(まろ)は許されたれば」と言った。
私は誰からも、何をするのも許されている。東宮入内が間近な、しかも弘徽殿女御の妹と思われる女性に対して、全くもって在原業平のような傲岸不遜、放縦不拘(ごうがんふそん、ほうじゅうにしてかかわらず)な行為だといえよう。
この姿勢は、嵐の右大臣邸の密会まで続き、ついに露見。進退極って光源氏は都を捨て須磨へと走る。
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答えよ
(そんな人もおりますまいが、僕のこと聞く人がもしいたら、今は須磨の浦で泣きながら潮を汲み、辛い日々を送っていると伝えてください)
これは、このころ詠んだ行平生涯の傑作である。その行平の須磨に光源氏を直行させたということは、光源氏の行平化にほかなるまい。業平から行平へ。作者は、東から西に進路を変えて、光源氏の変身を図っているのである。
行平は、芸術至上にして破滅型の業平とは違い、才学に長じ立身出世志向の強い人物であった。彼が須磨の屈辱から復活出来たのは彼の深い学問ゆえだ。隠岐に流されても中央に返り咲いた鬼才・小野篁(おののたかむら)と同様、学問が身を助けたのである。国史『三代実録』に美男だが無学であると評されている業平とは雲泥の差がある。紫式部は業平を捨て行平についたのだ。
天地を覆すほどの暴風雨。現れた父・桐壺院の霊の導きで、光源氏は、明石(あかし)に移る。なぜ明石か。となると、これも行平学問路線で説明がつく。 明石といえば、菅原道真(すがわらみちざね)と深い関係がある土地だ。道真は、知らぬ人はいない学問の権化だが、藤原氏の讒言(ざんげん)で大宰府に流される運命となる。 途中、この明石にさしかかり、憮然たる駅長に句詩をとらせたのは有名な話。
駅長莫驚 時変改 一栄一落是春秋
(駅長よ驚くではない。時は変ったのだ。栄える時もあれば衰える時もある。これが人生なのだよ)
また作者は須磨巻で、光源氏に道真が大宰府で詠んだ有名な漢詩の一節「恩賜の御衣は今ここにあり」と言わせ、彼のイメージを道真とダブらせている。つまり光源氏行平化の強烈な裏打ちが明石・道真なのである。 三年を経ずに復活した光源氏は昔の光源氏ではなかった。彼は学問を重んじ、漢学の基礎の上にたって大和魂を発揮する政治家となって我々読者の前に登場する。 藤壺を困らせ朧月夜を追ったかつての業平的面影はもうどこにもない。須磨・明石はいうなれば光源氏を行平に変身させる異界であったと考えておくとよいだろう。 若紫巻の明石紹介記事を思い出そうではないか。明石の海は海龍王国の海。彼は龍宮に行ってきたのだ。
光源氏の変化を最初に気付いたのは朧月夜である。彼女は光源氏が以前の光源氏ではないことを察知し、二心なく愛してくれる朱雀帝(すざくてい)のほうに心を傾けようとしている。 朱雀帝は、寛大な心で、彼女が光源氏に夢中なのはいたしかたない、男の自分でもそうなのだからと思っているのだけれども。
ゆかりの地へのアクセス
須磨から明石への眺めは、須磨浦山上遊園の回転展望台が最高である。光源氏が無実を叫び暴風雨を呼んだ須磨浦海岸。そこから柿本人麻呂の歌(ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ)で有名な霧深い海峡を越え、明石に到る海の道。 正面に、国産み伝説の淡路島がひろがり、壮麗な明石大橋の近代が古代を結ぶ。眼下眼前に展開される180度の歴史パロラマは圧巻というほかない。山陽電車「須磨浦公園」駅からロープウェイに乗り、カーレーターで行けば、瞬く間に山頂である。
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