義経は、河内源氏の正統を継ぐ源義朝を父とし、九条院の雑仕女で絶世の美女といわれた常盤御前との間に、平治元年(1159)京都の地で誕生した。(※誕生井)
しかし同年12月の平治の乱で敗れた父・義朝は翌永暦元年1月東国へ逃れる途中、尾張国知多郡であえない最期を遂げ、平家の追及を逃れるようと、三人の幼子(今若・乙若・牛若)を連れた常盤御前(※常磐と幼子)は、当時僅か一歳の牛若(後の義経)を懐に、八歳と五歳の二人の手を引いて、厳寒の中を一旦は目指す大和国宇陀郡に辿り着くのだが、六波羅に捕らえられた母の命を救うため、三人の子を連れて再び都に戻り六波羅に出頭する。
平家の総帥・平清盛の情けを受け入れることと引き換えに、母と三人の子は助命されるが、二人の兄は出家のためにそれぞれの寺に預けられ、乳飲み子の牛若だけは当分の間、母の手許で養育されることとなった。
やがて母の常盤は一条大蔵卿長成と再婚し、その庇護のもとで成長した牛若は、七歳のとき出家を条件に鞍馬寺に入ったというのが通説になっているが、入山は嘉応元年(1169)11歳のころで、それまでは山科の某所に預けられていたという説もある。
いずれにせよ、承安4年(1174)頃?16歳のとき鞍馬山を出奔して奥州に向うのだが、その間の鞍馬寺での彼の動静については、さだかな記録は皆無ですべて伝承の域を出ない。
しかし同年現在、鞍馬山には、「息継ぎの井戸」(※息継ぎの井戸)「背比べ石」をはじめ、起居したという塔頭「東光坊跡」にある供養塔や僧正ケ谷の遺跡などがあるが、いずれも室町時代以降に義経を偲んで作られたものだと思われる。ただこの鞍馬山での時期に、義経の武将としての才能が磨かれ、源氏縁故の人物から聞いたとされる、父・義朝の最期や源平の相剋の様子などによって平家打倒の意思が芽生えたことは間違いないであろう。また金売吉次その他(※首途八幡宮)の人物の奨めもあり、平家側の監視や追及が次第に厳しくなる状況が、彼の奥州行きを決断させたのも事実であろう。東へ向う途中、鏡の宿(現・滋賀県竜王町)で会帽子親もないままに自ら元服して「遮那王」から「源九郎義経」と名乗ったのもその決意の表れであろう。
京都史跡ガイドボランティア協会提供