TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第2回 近藤・土方VS清河・芹沢・伊東(3)



天保元年(1830)~文久3年(1863)
 庄内藩出羽の東田川郡清川村豪農の生まれで、幼児より俊才の誉れが高かった。17歳のとき、父の旧知で後に天誅組の総裁となる藤本鉄石が来訪し、影響を受けて江戸へ上る。
 江戸では、学問とともに北辰一刀流で剣の道も極め、29歳にして神田お玉ヶ池に「文武指南書」の看板を掲げてから尊皇攘夷へと傾倒していく。
 文久元年江戸で同士のヒュースケン暗殺に絡み幕吏に追われた清河は、江戸を離れて東北や西国へと旅を続け、尊王の志士を糾合していく。薩摩藩の島津久光の上京に合せて、勤皇の挙兵を企てるが、尊攘の志士が集結した寺田屋に久光の命を受けた奈良橋喜八郎らの制圧で頓挫する。いわゆる寺田屋事件である。
 江戸へ潜伏した清河は、文久3年の将軍家茂の上京に合せるように、幕府に建白書を上申する。内容は京都の不逞浪士排除のため、江戸近辺の憂国の浪士を糾合して京都に送り、治安を回復しようとするもので、尽忠報国の志士には過去の罪を問わず、許すというもので、清河は建白書を通じて己の罪状も不問に伏すことに成功したのである。策士としての面目躍如というところか。
 こうして集められた浪士を率いて上京した清河は、同年2月23日京の壬生へ到着し、その夜にまたまた奇策を使う。つまり「諸君達浪士隊は将軍警護が目的ではなく、尊皇攘夷のための志士であり、これから江戸へ下り、先陣を切って攘夷を行う」と宣言する。
 徒手空拳から行動を起こし、幕府を手玉に取り、朝廷から軍旗の日章旗を受領して江戸へ向かう清河であったが、清河等と袂を分かち、当初予定のとおり京都警護として残留したものが芹沢鴨や近藤勇らの壬生浪士組であ
った。
 清河は、江戸に帰った浪士組を率いて攘夷を行おうと行動を起こしたが、4月13日幕府から密命を受けた同じ浪士組の佐々木只三郎らの刺客に暗殺される。(享年33歳)
 尊王攘夷の先陣をきる筈であった浪士組は、清河を失い、新徴組として庄内藩預かりとなり、江戸市中取締りの命を受ける。その後の戊辰戦争において、官軍と戦い賊軍となる運命が待ち受けていたとは皮肉な運命の巡り合わせではある。

 
 
 

 
 
 新撰組初期に太く短く駆け抜けた芹沢鴨は、粛清された側だけに汚名に関するエピソードが多いが、浪士組結成時から一つのグループを率いており、それなりの人物であった。
 常陸の行方郡玉造町芹沢村農家の出で、家伝の傷薬で財を成した富農であったが武士ではなかったことが彼のその後の行動を見る上の参考になるであろう。色白で体格のよい芹沢は、水戸へ出た後、斉藤弥九郎門下の神道無念免許皆伝となり、師範代を務めたほどの腕である。
 後に浪士組に参加した仲間の新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助らも神道無念流の達人たちで、着衣も華美にして金回りもよく、同じく近藤勇の天然理心流グループらのどちらかといえば田舎臭い剣法を見下していたようだ。こういった芹沢の態度が粛清の遠因ともなる。芹沢は近藤より4歳ほど年長であった。
 芹沢はかつて水戸天狗党員であったが、彼は組織の一部として行動する性格ではなく、粗暴な行動が目立ち、とうとう死罪の身となるが、武田耕雲斎の助力によって放免されたという前歴もある。
 酒癖、女癖が悪く、短気ですぐ刀を抜くというトラブルメーカーで、こういったエピソードには事欠かない芹沢だが、粛清された側の立場として客観的に見ても組織を団結させて発展拡大させるリーダーとしての資質は満たせていないと思われる。

 ただし、上京した浪士組が何の後ろ盾もなく京都に残り、身の振り方、資金の調達などと困難な状況に陥ったときなど、京都守護職の会津藩との折衝や有無を言わせぬ資産商家からの軍用金借用など、彼の行動力によって窮地を救われたことも幾度もあったであろう。それでも、隊士全員への配慮に欠ける行動があったことは想像に難くない。
 最後に後ろ盾となる会津藩が「京都の治安回復」を目的として上京してきたことを省みず、芹沢一派が隊費の借用を断られた報復に、大和屋の土蔵焼き討ちにおよび、京都守護職の松平容保は、近藤一派へ芹沢の暗殺密命を下すことになる。(文久3年9月18日享年34歳)
 瘡(梅毒)を病んでいたともつたえられる芹沢は、自暴自棄になり自由奔放に生きることで、京都で死に場所を探していたのではないかとも思われる。
 なお、芹沢存命中は、新撰組の呼称はまだ使われておらず、先月の8月18日の政変に会津藩から壬生浪士組に御所警備命令が下命され、その功績から芹沢の死後、9月25日ころ会津藩の推薦で、朝廷から「新撰組」の隊名が下された。まるで芹沢の死を待っていたような計らいと思うのは・・・。

天保元年(1830)~文久3年(1863)
芹沢 鴨の墓
 
 
 

 
 

天保6年(1835)~慶応3年(1867)
 伊東は、常陸志筑藩士鈴木忠明の子として生まれ、鈴木大蔵と名乗ったが、脱藩し水戸に出て文武の道を目指した。水戸で北辰一刀流の道場伊東精一郎の塾頭となった大蔵は、伊東精一郎の死後、門人達に請われて伊東家の入り婿となり伊東性を名乗った。
 学問も水戸学をはじめとして多才を発揮する。水戸学は、朱子学の影響を受け、朝廷を敬う思想で、我国の中心に天皇があり、徳川将軍もその治世を委任されているに過ぎない。従って事が起こった場合は、天子(天皇)に逆らうことはできない。との思想である。水戸天狗党の乱や徳川斉昭、一橋慶喜の行動もこの思想が底流にある。
 近藤勇初期からの同士、藤堂平助と伊東は北辰一刀流の同門であることから、一騎当千の浪士、篠原泰之進、服部武雄、佐野七五三之助、鈴木三樹三郎を誘い元治元年(1864)10月27日上洛するのだが、伊東の思想と、将軍の警護から京都治安維持を目的とした佐幕派の新撰組とは、おのずと方向が異なり、分離は避けられないものであった。
 時代は、ますます混沌とした慶応2年(1866)12月25日に公武合体派で、攘夷急先鋒の孝明天皇が崩御する。徳川幕府から、新撰組を幕臣として取り立てようとの意見が聞こえてくるころ、伊東は新撰組を脱退する。脱退は死罪とする局中法度をのがれる奇策として、孝明前天皇の御陵を護る「御陵衛士」との名目で、新撰組と袂を別ける。
 慶応3年3月20日に城安寺(東山区南西海子町)で1泊、善立寺(東山区轆轤町にあるが、当時は五条通の郵便局付近にあり、大東亜戦争時に五条通拡幅工事に伴って移転)を経て6月に高台寺の月心院を屯所とした。隊士は、新撰組の襲撃に備えて就寝時にも刀を離さず、右肩を上に寝るか下にして寝るか真剣に討論したという。
 新撰組の束縛から離れた御陵衛士達は、勤皇の志士として活動を行なおうとするが、元新撰組という肩書きが付いてまわり、警戒されてしまう。このため伊東は、近藤勇の暗殺を謀り、尊皇攘夷派の信頼を得ようと計画するが、新撰組から御陵衛士に送り込まれた間者の斉藤一によって近藤たちの知るところとなる。
 近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が襲撃を受けた3日後の11月18日、近藤の妾宅に招かれた伊東は、宴席で新撰組幹部を前に講義をし、存分に痛飲しての帰り道、禁門の変の大火によって廃屋となっていた木津屋橋南側の物陰から新撰組・大石鍬次郎の繰り出した槍で致命傷を受け、その東側油小路の本光寺で無念の最後となる。この後、秋冷えの月光の下、七条油小路の激戦が繰り広げられる。
 伊東甲子太郎は、数少ない関東出身の尊皇派の生き残りで学問もあり、なかなかの人物であったが、新撰組組織維持のための局中法度の真意が解っていなかった。生死に関わる仕事をこなす新撰組は、もともと寄せ集めの隊士からなり、組織を瓦解させないために、御陵衛士は新撰組にとって危険この上もない
存在であるということ。そして、暗殺に関しては、新撰組に1日の長があった。
 
 
 

京都史跡ガイドボランティア協会提供

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