松崎 宜晃(正的院)
(ホスト役:坂本 良隆)
(その3)「五山の上」であった南禅寺
坂本:
「五山の上」の意味合いですが、いろいろ書物を読ませていただきましたが、やはり今も上という意識はありますか。
松崎 もう今は、歴史的な事実だけということで意識はありません。どこも同じお付き合いです。昔は、幕府が管理していた寺ですから、順位別をつけて五山に住職したものが五山の上の南禅寺に来られるとか、それだけ格式はありましたが。いきなりはなかなかなれなかったようですね。
坂本: 臨済宗ですが、京都には東福寺、天竜寺もそうですし、たくさん臨済宗の有名な寺がありますが。
松崎 臨済宗というグループであり、行き来もあり、どこに修行に行ってもいいけれども、運営をしていく上で、それぞれ歴史的な派に分かれて細かく動いています。確かに妙心寺は五山に入らなかったことから、妙心寺派のお寺が多いということもあります。
南禅寺が「五山の上」になったのは、天竜寺に関係があります。後醍醐天皇をおまつりしましょうと夢窓国師が足利尊氏に進言しています。天竜寺船をしたて、貿易などをして天竜寺を建てて、その開基として亡くなられた後醍醐天皇をおまつりしています。天竜寺の開基は後醍醐天皇ですから、「五山の第一位」となります。南禅寺は、後醍醐天皇の祖父にあたる亀山天皇だから「五山の上」というように上に位置するようになったと言われています。
坂本: 今のように大きく立派な南禅寺の形になったのは、徳川家康の時代になりますね。
松崎 綺麗に禅寺の形が整ったのは無関普門禅師(大明国師)の次の二世規庵祖円禅師(南院国師)の時代ですが、15年ほどかかりました。その後はいろいろな大火で焼けてしまっていますが、中興されたのは以心崇伝和尚です。当時35歳くらいで南禅寺の住職になられ、とても頭の良い方で、家康もいろいろ頼りにし、「武家諸法度」「公家諸法度」などの草案は以心崇伝が頼まれて作っています。
坂本: それらの書物の名称は知っていましたが、それが南禅寺さんと深くかかわっていたとは初めて知りました。
松崎 歴史家にはかなり悪く言われていますが、南禅寺にとしては中興の開山ですから。今の方丈庭園の国宝になっている「方丈」も、豊臣秀吉が宮中に寄進して建てた建物を江戸時代に徳川家がまた新しく建てるという事を聞いて、それなら古い建物がもったいないから一つくださいという事でもらってきたものです。
坂本: しかし、今現在残る非常に大きなお寺の建物が多くありますが、当時の大工さんは本当にあのような物を建てられたんですね。歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と大見得を切った舞台で有名な日本三大門のひとつ三門も素晴らしいですね。
松崎 藤堂高虎が半年ほどで建てたのですが、聞くところによると、大坂冬の陣、夏の陣の後で物価が高騰した事の影響で建築をいそ急いだそうです。それから、本当のところ石川五右衛門のお話は、三門から見る景色が素晴らしいことから、後からつくりあげられた話です。
坂本: 聞けば聞くほど、南禅寺のお話は歴史が深く、興味が沸きますね。京都に住んでいて京都の事はよく知っているつもりでも、京都のことは知らないことが多いですね。せっかく聞かしていただいた話をもっと皆さんに広めたいという思いがこの「DigiStyle京都」からの情報発信であります。

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