【第2回】加茂直樹+水野義之
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(その3)『教育と環境』 |
加茂: |
私は以前、京都教育大の学長をやっていましたが、学長をやっているあいだは教員ではないので、授業もなにもなく、勉強もするひまもかったのです。それが一昨年の春に終わって1年遊んでまして。くたびれていたものですから1年空いてちょうどいいだろうと(笑)。で、去年の春から京都女子大で再び教壇に立ったのですが、7年ぶりに授業をやったわけです。京都教育大の場合は少し女性が多いですが、まあ、男女半々くらいで自然な形でもあった。それが、女子大というものは共学とは雰囲気が違いましてね。 |
佐埜: |
ああ、やっぱり(笑)。 |
加茂: |
しかし女子大の中でも、京都女子大というのは比較的遅れていると言いますか、おとなしいところはありますね。 |
水野: |
うーん……良識的と言うか(笑)。 |
加茂: |
比較的そうですね。せいぜい髪を染めているくらいで、まだ地味なほうでしょう。 |
水野: |
ほんとうにまじめで、勉強好きなところがありますね。日本にまだこういう子たちが、たくさんいたんだなということを感じさせます。ヘンな言い方ですけど。 |
加茂: |
それと、我々の学部は新設の学部で、まだ1、2年生だけですから。4回生とか大学院生とかになると、また大分あつかましくなっていくのでしょうが(笑)、今はおとなしいわけです。酒も飲めないわけですよ。 |
水野: |
それと、 今の学生たちというのは非常に環境問題に関心が高いですね。話は環境の問題になるわけですが(笑)。しかし彼女たちも、環境問題にどういうふうに取り組んでいけばいいのかという具体的なイメージを持っているわけではないし、そもそも環境問題は難しくて、身近にできることしか判らないわけですよ。 |
加茂: |
いわゆる環境と教育という点で、ひとつ重要な連関を持つものがあります。結論から言いますと……簡単なのですが(笑)。今の子供の問題も環境の問題も、結局現代文明から来ているということです。科学技術文明と言いますか、産業社会的な文明ですね。今、「ウチの問題」と言って子育てに悩んでいる家庭や、「自分たちの力が足りないからだ」と学校で悩む先生たちがいますが、本当は家庭だけとか、学校だけとかで片付く問題ではありませんね。現代社会から来ている問題がかなりあります。 |
水野: |
学生たちがそれに気付こうとしていることは、見ていると、とてもよく顕れていますね。我々としてもそういう部分を踏まえて教育プログラムを作ろうとしています。 |
加茂: |
現代文明と言ってしまうと、個人の力で変えられるものではないから、諦めてしまうようなことになるのですが……現代社会というものを全体的にとらえて研究する学部、学問が必要だろうということになります。我々の学部の宣伝みたいで恐縮ですが(笑)。言ってみればまあ、哲学というのはなんでもやるわけですから、今の哲学でいちばん大切な問題はそこだろうと思っているのです。ただ、思想だけで解決できる問題ではないですね。法律制度から、教育から、個人の意識のレベルまで、非常に全体的な取組みが要求されます。個人でいくら努力しても、あるいはそういう人が多少増えたとしても現実は変わらないですね。そうすると、もう諦めてしまって……というようなことになるのがいちばん恐ろしい。環境倫理というようなことに対して個人が努力するのもいいのですが、それを実際に効果あるようにするためには、法律や制度で支えなけりゃいけないわけです。個人でいくらゴミを減らそうとしても、ちゃんと集めるシステムがなければダメですよね。簡単な解決があるということではないのですが、我々がたとえば50年前の生活だったら、廃棄物やエネルギー消費の問題でも、環境を非常に悪くするようなものではないと思います。そこに何らかのヒントがあるような気がします。その頃だったらそんなに問題が起こらなかった。だからと言って昔に帰れというわけではありませんが、京都の古いものを活かすという点で、なにか環境に貢献できることがないかなぁ、ということを思います。ただ、私自身、もともと京都の人間ではないもので。15歳のときに京都に来て、今年で50年くらいです。京男というのは嫌いでしたけど(笑)、50年もいたら他人から見ると立派な京男に見えるでしょうね。だから京都の古いものはあまり知らなくて、初めは反発もしていましたが、近頃はやはりそういうところにこそ、なにか良いものがあるように感じています。ただ、随分選別する必要はあると思いますね。古いものがなんでも良いとは私も思ってないわけで、また、そういう時代に帰ろうと思っても不可能ですから。 |
水野: |
たとえば「こどもみらい館」にしても、産業主義社会の中で効率のために最適化をすることによって、知らず知らずのうちに失われてきたものがたくさんある中で、やっぱりこういうものが必要なんだということで幾つか具体的になりつつあるもののひとつではないでしょうか。だけど具体的になっていないものも多くあるでしょうし、具体的になっていないものがどういうものかということすら、私たちには意識できていないことも多いでしょうね。そういうものを知るヒントが、ひとつは人口の増加であったりエネルギー消費の増加であったりに関わることでしょうね。二酸化炭素の排出問題にしても1990年代という、ある飽和点に達した段階で急激にクローズアップされて来るわけです。しかし一方では、それじゃどの時点をスタンダードにするのかといった問題もあります。加茂先生がおっしゃったように、ただ昔に戻れではやる気が出ないでしょう。新しいものを創り出すことによって、私たちは自分の存在価値を感じるということだと思います。 |
加茂: |
ま、若い人が全然受け付けなかったら、それでおしまいですから。押し付けるという意味ではないです。ボランティアと同じで、自発的なものを活かしながらそれをどう組織できるかということですね。 |
水野: |
既存の組織では失われてしまったものがたくさんあって、それを取り戻すにはその組織に任せていてもどうにもならない。たった一人でもいいからやるべきだと感じる人がいて、そこに発生するものがボランティアというものでしょうね。しかしそういう失われたものに対する危機感や、取り戻そうとする気持ちを、余裕を持って感じられる社会制度になっていないのが現状ですね。何が本当に大切かとか、何をしなければならないかということを感覚を得られないままになっているのではないでしょうか。家庭の父親だって、教育について余裕のないまま、どんどん日常の生活が過ぎてしてしまっているかもしれません。 |
加茂: |
女性がやっているから男もやらなきゃいかんと、そう押し付けるのではなく、子育てとはもっと楽しい面もあるわけです。今、そういう楽しめている若い父親も増えてきていると思います。おおざっぱな話ですが、国家の責任というのはだんだん広がってきつつあるもので、近頃は何でもかんでも「国家の責任だ」というような傾向もあります。教育なども昔はほとんど親だけの責任だったのですが、今は親がだらしなくても、子供が可哀相だから国家社会が責任を持つ時代ですね。福祉とかなんとか、いろいろ広がっていっています。ただそれが結局はみんなの負担増になるわけです。国家を通してやるとすべてコストがかかるわけです。ところが遊んでいる人はいっぱいいて、エネルギーをもてあましている人もいる。そういう人たちは、「こどもみらい館」のボランティアに喜んで来てくれます。ありがたいことに、募集人数の何倍も来てくれます。そういうエネルギーを活かすということを何についても考えないと、これからはお金ばかりかけていいという時代ではなくなりますから。こういうことは市場経済の話には出てこないでしょう。市場経済の観点からばかり社会を見ていても、こういう環境とか教育の問題は決して解決しないでしょうね。 |
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