鴎外は「ニ生」を生きたといわれる。 一生は軍医として、 そしてもう一生は作家として。  森鴎外、本名森林太郎は文久2年(1862)、津和野町町田に生まれた。東京大学医学部を卒業後、軍医の道を進み、明治17年(1884)から4年間ドイツヘ留学。帰国後「即興詩人」(翻訳)や「舞姫」を著し、鶴外の名を全国に知らしめた。  軍医としては、日清、日露戦争に従軍。やがては軍医総監陸軍省医務局長という、軍医としての最高位に就くことになる。
森鴎外(1862〜1922)
第一展示室のようす。
 明治42年(1909)、雑誌「スパル」の創刊を契機に創作活動を活発に進め、「半日」「ヰタ・セクスアリス」「雁」「青年」等を発表。明治の文壇に不動の地位を築いた。
軍医として、また、作家として、それぞれの頂点を極めた鴎外であるが、その心のよりどころには、いつも津和野の山河があった。
「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
遺言に託した、鴎外、最後の望みである。
ロビーから中庭越しに鴎外の旧宅が望める。
鴎外旧宅。この一室は勉強部屋として使われていた。
 森鴎外記念館は国指定史跡・森鴎外旧宅の南側に隣接、生家である旧宅を展示物の一部として取り込んでいる。ここでは鴎外の生活や作品等の資料が多数展示され、鴎外の世界を堪能することができる。

第1展示室は軍医として、そして文学者として二生を生きた鴎外が、10歳で上京したところから60歳でその生涯を閉じるまでを、映像や著作、遺品、直筆原稿などで紹介。第2展示室では鴎外の津和野時代を、資料とハイビジョン映像で展示している。
2つの展示室をつなぐ小憩ホール。
鴎外が眺めた津和野川を一望できる。
提供:
森鴎外記念館パンフレットから転載

森鴎外の「鴎」のへんは、正確には「区」ではなく「區」です

▲ページトップに戻る