12月14日は、赤穂浪士が江戸の吉良上野介義央の屋敷に討ち入った日です。討ち入りがこの日に決定されるのに重要な鍵を握っていたのが、深草出身の人物だったことをご存知でしょうか。
その人物は、荷田春満(かだのあずままろ)。伏見稲荷大社の神職を代々務めた羽倉家の出身で、古事記・日本書紀・万葉集などを研究して国学の先駆者になりました。江戸へ出て、国学を研究しながら、武士や町人に歌道や神道を教えました。その頃は羽倉斎(はぐらいつき)と名乗っていました。後年、将軍徳川吉宗に招かれて幕府にも仕えました。
春満の門下生の1人に、吉良家の三家老の1人である松原多仲がいました。春満は吉良邸に出入りし、上野介とも知り合っていたようです。春満が江戸で間借りしていたのが、呉服商の中島五郎作の屋敷でした。この中島五郎作の学友に大石内蔵助の遠縁にあたる大石三平がいました。三平は中島宅をしばしば訪ね、春満とも親しくなりました。三平は、春満から得た吉良邸の情報を、四十七士の堀部弥兵衛(金丸)や間瀬久太夫(正明)に伝えていました。内蔵助も「斎」からの情報を頼りにしていました。そして元禄15(1702)年12月14日、上野介が確実に吉良邸にいるとの情報が、春満から三平を通じて、内蔵助に伝えられました。
一説には、大石内蔵助が以前から荷田春満を知っていたとするものがあります。内蔵助は主君浅野内匠頭長矩が切腹した後、討ち入りまでの1年間、京都の山科に隠れ住んでいました。そして仇討の気持ちはないと世間に思わせるため、伏見撞木町の遊郭に通い、遊び暮らしていることを装いました。山科から撞木町へ歩いて通う途中に、春満の家があったというのです。
春満の生家は、今も伏見稲荷大社の境内に残っています。地図で見ると、山科の大石内蔵助旧居跡から伏見稲荷大社までは案外近いことがわかりました。しかし、伏見稲荷大社は西の方向、撞木町は南西の方向なので、伏見稲荷大社を経由すると遠回りになります。また、伏見稲荷大社へ行くには、稲荷山の山頂付近を越えなければなりません。稲荷山南麓を回る東海道(57次)を通って撞木町へ直接行く方が、どう考えても合理的です。
その頃、春満は江戸に住んでいたはずなので、たまに帰郷していたとしても、大石内蔵助と出会うチャンスはまれだったろうと考えます。ただ、実は荷田春満と大石家は遠い親戚だったとする説もあるのです。それならば、内蔵助が博識の春満に、わざわざ会いに行くということはあるかと思います。
大石内蔵助旧居跡から荷田春満生家を通って、撞木町まで歩いてみることにしました。
大石内蔵助旧居跡に向かう坂道。正面の山を越えると伏見稲荷大社。
大石内蔵助旧居跡。石段の上には、内蔵助の念持仏を本尊とし、浅野内匠頭と四十七士の位牌、内蔵助の遺品を安置している岩屋寺(大石寺)があります。
大石内蔵助旧居跡から北へ、大石神社下を過ぎ、府道の稲荷山トンネル入り口を右に見て坂を上がり、山道に入ります。
稲荷山トンネルを右に見て坂を上がったあたりから、山へ。
木立の中を進みます。
倒木が通せんぼ。
右は伏見稲荷大社、左は新山科浄水場。右へ行きます。
山道に入ってから40分で西野山のピークに着きました。標高239メートル。稲荷山の山頂より高い位置になります。
右から登ってきて、伏見稲荷大社は左ですが、ちょっと西野山山頂に寄り道。
西野山山頂。木々が生い茂って、景色はまったく見えません。
山頂の三角点
ここまで歩いて、大石内蔵助がこんな山道を何度も行き来したとは信じがたくなりました。遊郭へ遊びに行くなら、それなりに良い衣装を身に着けていたであろうし、大事な討ち入りを控えているのに、怪我の恐れもある山歩きをするとは考えにくいのです。江戸時代に、もっと良い道があったとも思えません。
ところで、赤穂浪士の討ち入り事件は、浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられて江戸時代に大ヒットしました。有名なのは『仮名手本忠臣蔵』で、時代を室町時代に置き換え、吉良上野介を高師直、大石内蔵助を大星由良之助として描いた創作です。他にも様々にアレンジした戯曲が作られ、演じられました。その中の1つ『難波丸金鶏(なにわまるこがねのにわとり)』には、「深草砂川の段」という場面があります。「薺(なずな)はやしの俎(まないた)に、向ふ七日は七色の、羹(あつもの)祝へば災難も、ないぞ七瀬の砂川に…」と始まる一節。その昔大星由良之助に仕えていた塩屋長次郎という人物がどうやら主役なのですが、ここだけ読んだのでは、どこが赤穂浪士の話なのか、私にはチンプンカンプンです。
山道に戻ります。
西野山の山頂を過ぎると、しばらく平らな道になります。この辺りが山科区と伏見区の境かなと思っていたら、大きな石の祠が現れました。左右に狐が鎮座して、どうやらお稲荷さんの境内に入ったようです。
山科から伏見に入るとすぐに現れた祠
この先、急な下り坂が続きます。地面には黄色い粘土質の土が表れています。稲荷山では昔から焼き物に適した良質の土が採れ、深草瓦や伏見人形に利用されてきました。
急な下り坂。粘土質の土が露出しています。
一の峰へは行かずに、深草方面に向かいます。
急な斜面に沿った細道。足を滑らせたら一大事。
やがて道は石段に変わり、眼下に鳥居が見えてきました。
眼下に鳥居。こんなアングルから千本鳥居を見るのは初めて。
断崖に建てられた“舞台”に着きました。「大岩大神」と書かれています。
大岩大神
なるほど、大きな岩盤が御神体になっています。稲荷山が神聖な場所になったのは、古代の磐座(いわくら)、すなわち大きな岩などに対する信仰から始まったと考えられています。ここはそのような場所の1つなのでしょう。
大岩大神の御神体
更に道は下り坂です。
しばらく下ると舗装された広い道に出ました。山科を出発してから1時間程です。ここで初めて人に会いました。外国人ばかりです。彼らが見に来ていたのは、七面の滝でした。滝といっても、石樋から水が落下する修行場のようなものです。
七面の滝
深草トレイルの道標がありました。青木の滝の方へ進みます。
美しい竹林の道を行きます。深草の竹で作られたのが深草うちわです。
この辺りは「竹乃下道」と呼ばれる古道。
青木の滝、伏見神宝神社を過ぎて、おもかる石などのある奥社奉拝所にたどり着きました。この先、伏見稲荷大社楼門までの大渋滞は省略します。
やっとこさ、おなじみの場所へ。
さて、本題に戻ります。楼門の北側に、荷田春満旧宅があります。門扉が閉ざされ、公開されていませんが、春満の生家の一部が残っているとのことです。また、隣には東丸神社(あずままろじんじゃ)があり、春満を祭神としています。
荷田春満旧宅の門
東丸神社の説明板(一部)。赤穂浪士との関係について解説されています。
春満の墓も、伏見稲荷大社の近くにあります。境内の南側、ぬりこべ地蔵のある墓地の南東隅辺り。明治時代に建てられたものですが、自然石に「荷田羽倉大人之墓」(※「之」は異字体)と刻まれています。
荷田春満の墓
ここまで歩いて来たので、大石内蔵助が通った撞木町まで行ってしまいましょう。江戸時代すでに整備されていた直違橋通をまっすぐ南下。墨染駅前から墨染通りを西へ進み、すぐまた南へ。この辺りが旧東海道です。伏見税務署を過ぎると、大正7年に建てられた「撞木町郭入口」という石柱があります。伏見稲荷大社の大鳥居から徒歩40分程でした。
撞木町
現在は昔の面影はありませんが、かつてここが遊郭だったことを示す「撞木町廓之碑」が建っています。入口の石柱と同じ大正7年のもので、「赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉の一策として当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せる…」と刻まれています。
撞木町廓之碑
また内蔵助は「よろづや(万屋)」も利用しました。『仮名手本忠臣蔵』では、撞木町が祇園に置き換えられ、よろづやは「万」の字が「一」と「力」に分解されて、一力茶屋になったとされています。現在祇園にある一力亭は、『仮名手本忠臣蔵』の芝居がヒットした後で屋号を変えたようです。
よろづや跡
今回歩いた大石内蔵助旧居跡から伏見稲荷大社までの山歩きは、必ずしも江戸時代からあった道とは言い切れませんが、稲荷山に至るあまり知られていないルートとして、ご紹介しました。標高は低い山ですが、途中険しい所もありますので、十分な注意が必要です。普段山歩きをされない方は、慣れた人と一緒に行くことをお勧めします。
【おもな参考文献】
根岸茂夫「荷田春満と赤穂浪士」(『國學院雑誌』第119巻第5号、2018年)
内海繁太郎『文楽盛衰記』(1964年)
幸堂得知 校訂『忠臣蔵浄瑠璃集』(1902年)
店舗・施設名 | 撞木町 |
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住所 | 京都市伏見区撞木町 |
Writerたけばしんじ
Writerたけばしんじ
深草地域の文化「保存・継承・創造」プロジェクト実行委員、伏見チンチン電車の会代表、ステンシル作家、その他得体の知れぬ肩書が複数。
あまり人に気付かれることのない、実生活には無関係な重箱の隅を、穿った視点で追究してみたいと思います。
1987年日本大学文理学部史学科卒業。本業は教育関係。