はじめまして、E-TOKO深草地域ライターのたけばしんじです。
突然ですが皆さん、稲荷山にカエルの神社があるのをご存知でしょうか。
伏見稲荷大社の楼門をくぐり、本殿や千本鳥居の方へは行かずに左へ進むと、八嶋ヶ池という池があります。ここから稲荷山を上る細い坂道をたどると、少し開けた場所に出て、大きな石のカエル像が目に飛び込んできます。
「末廣大神」と書かれた赤い鳥居の前に、狛犬ならぬ“狛蛙”が並んでいます。
中央に信楽焼の小さなカエルが置かれてあり、カエルの口からお金を入れる賽銭箱になっています。
ただ、この神社には社殿もなければ神主さんらしい人もいません。鳥居の向こうには、たくさんの石碑が建てられているだけで、どこまでが境内なのかもわかりません。入り口近くの掲示板には、大日本大道教の敷地であると書かれています。確かに、同じ敷地内に中国風の神像が並ぶ建物があります。
思い切って、呼び鈴を押してみました。
話を伺ってみましたが「詳しいことは知らない」とのことでした。大道教とは関係のない神様なのだそうです。
ただ、守をする人がいなくなってしまったので、境内をきれいにしたり、休憩所を設けたりしているのだとか。そう遠くない昔に、付近にあった石碑を集めて、手作りの鳥居を建て、祀った人があったそうです。この辺りは谷で、以前は多くのカエルやカメがいましたが、絶滅してしまったのをいとおしく思い、カエルの石像を置いたのだそうです。
付近に石碑がたくさんあったとは、どういうことなのでしょうか。
かつては、稲荷山そのものが信仰の対象だったようです。平安時代には、下社、中社、上社と、山中にある社殿を順番に回る習わしだったようで、清少納言の『枕草子』には、初午の日に苦労して登る様子が描写されています。その後、社殿が山麓に建てられてからも、稲荷山の信仰は続きました。神仏習合が進み、仏殿や寺院もいくつか建てられたようです。明治時代になると、神仏分離令が出て、これらの仏教施設が破却されました。それに代わって登場したのが「お塚」と呼ばれる小さな神社でした。これは個人がそれぞれの守り神として祀ったもので、いわば、おひとりさま神社。思い思いに神の名を刻んだ石碑などを建て、鳥居や小さな狐を並べて祀られています。伏見稲荷大社によると、現在お塚は1万に上るといいます。
末廣大神のある辺りは茨谷と呼ばれ、お塚が密集していたようです。大正時代に書かれた案内書には、茨谷のお塚が細かく記載されていて、その中に「末廣」という名前も複数見られます。こういったお塚のうち、拝む人のいなくなったものが末廣大神に集められたのかもしれません。
吉田初三郎『伏見稲荷 全境内名所図絵』1925
(京都学・歴彩館蔵)
では、この末廣大神には、どのようなご利益があるのでしょう?
先ほどお話を伺った方に聞いてみました。すると、ご利益なんて商売の方が考えることですよ、とおっしゃいます。神様に何を願うかはその人しだい、ありがたいと思うかどうかは人それぞれ。神様の側からご利益を宣伝するのは、商売だからですよ。…なるほど。だからこそ、おひとりさま神社があるわけですね。
狛蛙さんの後ろに、昭和の頃に建てられたお塚があります。「阿佐田哲也大神」と彫られています。
阿佐田哲也とは昭和時代に活躍した作家、色川武大氏が麻雀小説を書くときに使ったペンネーム。映画化された『麻雀放浪記』は代表作の1つです。
このお塚は、阿佐田哲也氏の愛読者だった人が麻雀大会で優勝したことに感謝し、氏を大神と崇めて、優勝賞金で建てたそうです。まさに個人専用の神様。今はもう、お参りする人もないとのことでした。
末廣大神は特に宣伝することはないそうです。だから取材も受けないそうです。写真を撮ったり記事にしたりすることはご自由に。通りがかりに、かわいいカエルに気づいてにっこりしたり、ちょっと休憩してくれればいい。そんな風におっしゃられました。
帰りがけに、カエルの手水が目に入りました。山茶花や千両・南天が活けられて、冬の日差しを浴びていました。
なお、稲荷山の山頂に近い一ノ峰(上社神蹟)に祀られている末広大神とは、直接的な関係はないようです。
店舗・施設名 | 末廣大神休憩所 |
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住所 | 京都市伏見区深草開土口町 |
Writerたけばしんじ
Writerたけばしんじ
深草地域の文化「保存・継承・創造」プロジェクト実行委員、伏見チンチン電車の会代表、ステンシル作家、その他得体の知れぬ肩書が複数。
あまり人に気付かれることのない、実生活には無関係な重箱の隅を、穿った視点で追究してみたいと思います。
1987年日本大学文理学部史学科卒業。本業は教育関係。