京都市営地下鉄「京都市役所前」駅すぐにある、ホテルオークラ京都。その河原町通沿いにあるのが長州藩(現山口県)出身の桂小五郎(のちの木戸孝允)の像です。この場所は江戸時代初期から幕末まで、長州藩の屋敷が置かれていました。
天保4年(1833)、長州藩医・和田昌景(まさかげ)の次男として生まれた桂小五郎。藩校の明倫館(めいりんかん)で兵学を学んだあと、剣術修行のために江戸に向かいます。すると入門からわずか1年で道場のトップに。さらに西洋兵学や小銃術、造船術なども学び、知識を深めていきました。
その後は尊王攘夷活動のリーダー的存在として、政治の中心地・京都で活動。のちに大久保利通、西郷隆盛と並んで「維新三傑」の一人と称されました。
さらにホテルの御池通沿いには、長州藩の屋敷跡を示す石碑も。1938年、京都市教育会によって建てられました。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで毛利輝元(てるもと)が徳川家康の東軍に敗れ、周防・長門の2か国を領地として成立した長州藩。幕末の13代目には毛利敬親(たかちか)が藩主を務め、桂小五郎のほか松下村塾の塾主・吉田松陰や奇兵隊を結成した高杉晋作など、多数の志士を輩出しています。
関ヶ原の戦いにおける敗戦から、徳川家には並々ならぬ想いを抱き続けてきた長州藩。家臣団の結束が強く、幕府への敵対意識は相当なものでした。正月の祝賀の席で家老が藩主に「今年はいかがいたしましょう(幕府を攻めましょうか)」と尋ねると、「まだ早い」と答えるのが慣習になっていたという逸話が残っているほど。
嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船がやってきてからは、天皇の許可なく独断で日米修好通商条約に調印したり、調印に反対した志士を弾圧(安政の大獄)したりと、幕府の行動に長州藩は反発心をさらに膨らませていきました。
京都で尊王攘夷を進める長州藩士たち。その拠点となったのが長州屋敷でした。積極的な活動は薩摩藩、会津藩などから恐れられ、文久3年(1863)8月18日、長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放されてしまいます(八月十八日の政変)。
再起を図る長州藩は翌年、ある計画を企てます。それは「京都の街に火を放ち、その混乱に乗じて幕府や公家の要人を暗殺、さらに天皇を長州へお連れする」というもの。三条通の旅籠、池田屋で長州藩士を含めた尊王攘夷派の志士たちが密談していると、そこに新選組が「御用改めである!」と襲撃。約20名の志士が捕縛・殺傷されました。これが有名な池田屋事件です。
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八月十八日の政変や池田屋事件で、ピンチに陥った長州藩。藩内では、木島又兵衛ら過激派の怒りは収まらず、桂小五郎や高杉晋作などの反対を押し切って京都へ出兵します。元治元(1864)年7月に起きた蛤御門の変(禁門の変)です。
烏丸通りに面する、この門の正式名称は新在家御門(しんざいけごもん)。江戸時代中期におこった大火の際に初めて門が開いたことから、焼けて口を開く蛤に例えられてこう呼ばれています。
長州藩はここで会津・薩摩などの連合軍と交戦し、御所に向かって発砲。戦いの激しさを伝えるかのように、現在でも門には弾痕らしき傷が残っています。結果的に長州藩が敗れ、朝敵として汚名を着せられることに。長州藩邸にも自ら火を放ち、このとき建物は消失しています。
戦闘はわずか1日で終わりましたが、京都市中は数日間火災が続き、大きな被害を及ぼしました。この火災は「どんどん焼け」と呼ばれています。
蛤御門から御苑に入り、左手に御所の壁を見ながら南下したあたりにあるのが、鷹司邸跡の駒札。長州藩士の久坂玄瑞は、この場所で命を落としました。当初は京都出兵に対して慎重な姿勢を示していた久坂玄瑞ですが、強硬派を抑えられず自らも出兵。劣勢になると御所に隣接する鷹司邸で自刃しました。
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敗戦で勢いを失った長州藩でしたが、慶応2年(1866)の第2次長州征伐では幕府軍に勝利します。その後、薩摩藩、土佐藩、肥前藩と協力して、倒幕への動きを本格化。慶応3年(1867)には大政奉還が実現し、時代は明治へと大きく変化していきました。
約260年間続いた徳川幕府を終焉に導き、多くの志士たちが日本の未来のために奔走した長州藩。一時は朝敵とされましたが、諦めることなく倒幕を目指し、新しい時代をつくりあげていったのです。
※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです
<参考文献>
時空旅人編集部編『成立から倒幕まで 長州藩 志士たちの生き様』三栄書房、2018年
■京都御苑
住所:京都市上京区京都御苑内
電話番号:075-211-6364(一般財団法人 国民公園協会 京都御苑)
営業時間:入場自由
ホームページ:https://fng.or.jp/kyoto/
店舗・施設名 | ホテルオークラ京都 |
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住所 | 京都市中京区河原町御池 |
電話番号 | 075-211-5111 |
ホームページ | https://www.hotel.kyoto/okura/ |
Writer 株式会社文と編集の杜
Writer 株式会社文と編集の杜
歴史が好きなライター・瓜生朋美が2013年に設立した編集・ライティング事務所。「読みものをつくること」を業務に、インタビュー、観光系ガイド、広告記事、書籍など、ジャンルを問わず企画・編集・ライティングを行っている。近年は、歴史イベント運営や広報物の制作も担う。2020年オフィスに表現を楽しむスペース「店と催し 雨露」を併設。イベント開催するほか、雑貨の販売も。
WEB:http://bhnomori.com/