500円札の存在を御存じなのは、40代以上の人でしょうか。平成のはじめくらいまで流通していたお札です。その500円札に書かれていた肖像画が、岩倉具視です。
まずは、岩倉具視の前半生を駆け足で見ていきましょう。
岩倉具視は、1825年、京都の公家・堀河家に生まれ、14歳のとき、同じく公家の岩倉家の養子になりました。堀河家も岩倉家も公家と言っても家領の少ない下級公家の家柄。政治の表舞台で何かを発言するような立場にはありません。そこで、29歳の時、岩倉は関白・鷹司政通に接近。存在感を高め、1857年には近習という役職をつとめます。
ペリーの来航は1853年ですから、江戸幕府と朝廷に対外危機という難題が降りかかってきていました。1858年、アメリカとの通商条約調印をめぐって朝廷と幕府は衝突。岩倉具視は中級、下級の公家たちとともに関白に直談判(「八十八人の列参」)するなど、活動を活発にしていきます。
そんななか、幕府は天皇の勅許を得ることなく、条約に調印。それから大老・井伊直弼による反幕府派の粛清「安政の大獄」、さらには「桜田門外の変」で井伊大老暗殺と、政情不安の真っただ中。この混乱を収束させようと幕府が進めたのが「和宮降嫁」です。壊れてしまった朝廷との関係を修復しようと、孝明天皇の妹君である皇女和宮の将軍家茂への降嫁を願い出ます。これに朝廷は攘夷の実行を条件にして内諾。岩倉は、和宮降嫁にさいしての「御用掛」として、中心的な役割を果たしました。しかしそのことが裏目に出ます。幕府と協力して和宮降嫁を成功させたとして、朝廷内の急進的な攘夷派から批判を受け、岩倉は身の危険を感じるほどに。自ら近習を辞職しただけではおさまらず、1862年、蟄居(謹慎)・落飾(出家)を命じられ、洛中からの追放令を出されてしまうのです。
岩倉具視は、霊源寺、さらには西芳寺と居場所をかえながら、岩倉の地にたどり着きます。ここで。約5年間、潜伏生活を送ることになります。そのうち3年間住んだ建物が、国指定の史跡「岩倉具視幽棲旧宅」として公開されています。
©植彌加藤造園
「幽棲」とはどんな状態なのか。ついつい、「幽閉」を連想してしまうのですが、「幽」は静かにひっそりとしていること。つまり「幽棲」というのは、人目をさけて静かに暮らしていた家という意味です。
岩倉具視は、最初の2年間は、現在の「岩倉具視幽棲旧宅」に隣接した場所にあったボロボロの家に隠れ住んでいたとか。それだけ命の危険を感じていたのです。その後、「岩倉具視幽棲旧宅」の附属屋にあたる大工の家を買い取り、主屋(隣雲軒)などを増築して住まいとしました。
この家で生活するようになってからは、薩摩や土佐の志士たちがひそかに訪ねてきていたそうです。なかでもよく訪れていたのが、大久保利通と中岡慎太郎。岩倉具視は日記を残していて、坂本龍馬が来たことも記されています。
岩倉具視は洛中へ入ることを禁じられましたが、人の訪問などを禁止されていたわけではありません。岩倉家そのものは洛中(丸太町通富小路北側)にあり、連絡を取ることもできました。朝廷とのパイプが欲しい志士たちのブレーンとして、ともに策を練っていたのでしょう。
「岩倉具視幽棲旧宅」は、内部にも入ることができますので、ぜひ、隣雲軒の居間に座ってみてください。
岩倉具視の没後に改修や整備がなされていますが、幽棲時代と変わっていないのが、床の間横の天袋と地袋の襖。現在もうっすらとですが、雀や竹の絵を見ることができます。きっと大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬らも見た絵柄です。
それにしても岩倉は、現在は京都市左京区ですが、今も昔も洛中からかなり離れています。京都市中心部から車で約30分。10キロほどの道のりです。それを徒歩で頻繁に訪れていたというのですから、岩倉具視がいかにキーマンと目されていたのかわかりますね。
この家での3年は志士たちと会合を重ね、意見書を書くなどして、政治的活動はしていますが、当時の朝廷と孝明天皇は、一橋(慶喜)や当時京都を守っていた会津藩、桑名藩といった幕府方への依存度を増していて、薩摩や土佐と通ずる岩倉は影響力を取り戻すには至りません。完全に自由の身となるのは、大政奉還ののち、1867年12月9日、王政復古の当日です。この日、幕府制と摂関制が廃止され、新政府が樹立。岩倉具視は、政治の舞台に復活したのです。
その後は新政府の中心人物として手腕を発揮し、1883年、59歳で亡くなりました。
蟄居が解かれ江戸にうつった後も、この屋敷は地域の人や岩倉家の家臣たちによって保存。岩倉の死去から2年後には遺髪を収めた遺髪碑が建てられていて、その隣には岩倉の妻や息子たちの遺髪碑もそれぞれの没後に建てられました。
「岩倉具視幽棲旧宅」へ行く途中、いわくら病院の角を曲がるところに、「左 岩倉公幽栖地」という道標があります。これは昭和3年に岩倉公旧蹟保存会によって建てられたもの。旧蹟保存会は、この屋敷を守ってきた家来や地域の人たちの子孫によってつくられた会だそうです。
大正時代に土地と建物が岩倉家から岩倉村に寄贈されたあと、この旧蹟保存会によって、建物が所有・保存・管理されてきました。昭和初期には、貴重な資料を展示する「対岳文庫」と事務所棟が、武田五一の設計で建てられ、庭は七代目小川治兵衛が整備にかかわったことが分かっています。2013年、京都市に土地・建物が寄贈され、現在に至ります。
©植彌加藤造園
©植彌加藤造園
洛中から離れたのどかな岩倉の地で、日本の将来を話し合っていた建物、隣雲軒。居間はいわゆる6畳間で決して広くはないのですが、ここに座って庭を眺めると、この建物の持つ歴史のせいか、実物以上に広く感じました。そして、手入れの行き届いた庭や建物に、岩倉村の人々の岩倉具視への尊敬の気持ちが伝わってくるのです。
※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。
〈参考文献〉
『岩倉具視幽棲旧宅ガイドブック』 (岩倉具視幽棲旧宅管理事務所編集・発行)
『岩倉具視 幕末維新の調停者』(坂本一登著 2018年、山川出版社)
※感染症予防対策のためしばらくの間は予約制 2020年7月現在※
岩倉具視幽棲旧宅では現在安全に配慮した同時の入場制限のため、《入場予約制》にて開場を行っています。入場のご予約および注意事項などの詳細は、公式サイト、SNSにて確認を。
公式サイト:https://iwakura-tomomi.jp/
Facebook: https://www.facebook.com/iwakuratomomiueya/
Twitter: https://twitter.com/iwakura_tomomi_
Instagram: https://www.instagram.com/iwakura_tomomi_/
店舗・施設名 | 岩倉具視幽棲旧宅 |
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住所 | 京都市左京区岩倉上蔵町100 |
電話番号 | 075-781-7984 |
営業時間 | 午前9時~午後5時(入場は午後4時30分まで) |
交通 | 地下鉄烏丸線国際会館駅から京都バス24系統で終点「岩倉実相院」下車南へ3分 阪急電車河原町駅、京阪電車三条駅・出町柳駅から京都バス21・23系統で終点「岩倉実相院」下車南へ3分 叡山電車岩倉駅から北へ約1.4km 徒歩約20分、又は京都バス21・23・24系統「岩倉実相院」下車、南へ徒歩3分 |
料金 | 入場料 400円 |
Writer 株式会社文と編集の杜
Writer 株式会社文と編集の杜
歴史が好きなライター・瓜生朋美が2013年に設立した編集・ライティング事務所。「読みものをつくること」を業務に、インタビュー、観光系ガイド、広告記事、書籍など、ジャンルを問わず企画・編集・ライティングを行っている。近年は、歴史イベント運営や広報物の制作も担う。2020年オフィスに表現を楽しむスペース「店と催し 雨露」を併設。イベント開催するほか、雑貨の販売も。
WEB:http://bhnomori.com/