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2020.03.09

池田屋騒動

八月十八日の政変

蛤御門の変

大政奉還

鳥羽伏見の戦い

 

 

京都から遠く離れた会津の藩主でありながら、全てに関わっているのが松平容保です。外見はすらっとした真面目な若者。体はあまり丈夫ではなく、幕末の大事件に次から次へと巻き込まれていきます。坂本龍馬や近藤勇のように、派手さはないかもしれませんが、幕府や朝廷に一途に尽くした会津藩主。思わず「頑張って…!」と応援したくなります。

 

会津藩は、現在の福島県、新潟県、栃木県の一部にまたがる領地で、徳川秀忠の息子である保科正之(松平家)が藩主となって以来、松平家がおさめていて、23万石を有していました。容保は会津の生まれではなく、美濃高須藩主の六男です。高須藩は徳川御三家のうちの一つ、尾張藩の支藩で、小さな藩でしたが尾張藩主に後継ぎがいない場合は高須藩から候補者を出すとういうようなお家柄。容保は1846年、12歳で会津藩主松平容敬の養子になりました。江戸幕府徳川家の親戚筋のご出身。幕府を助ける、支えるということは絶対!という立場です。

 

京都守護職として会津から京へ

 

京から遠い、東北の大名である会津藩が、なぜ都にやってきたのかというと、「京都守護職」という役目を仰せつかったのです(1862年)。幕末の混乱する京のまちを鎮圧せよというお達しでした。ちなみに、京都の治安を維持する役割としては「京都所司代」という役人がいましたが、もはや所司代だけでは抑えきれず、強力な武力を持つ会津藩に要請がきました。それくらい、京のまちは荒れていたのです。

 

12月、会津藩は約1000人の兵力で京へやってきて、黒谷の金戒光明寺に本陣をおきました。金戒光明寺は都の東部に位置し、西へまっすぐ進めば、御所、そして二条城というロケーションです。

また、翌年には御所の西側に「京都守護職上屋敷」を造営しています。現在の京都府庁のあたり。府庁に入るとすぐ右手(東)にある説明看板によると、京都守護職の屋敷は市中に複数あり、ここはそのうちの一つだそう。幕末に、京都守護職会津藩の勢力がいかほどだったか、あるいは、京都守護職に朝廷や幕府が期待していたのか、想像できますね。

 

 

八月十八日の政変~池田屋事件~蛤御門の変。薩摩の協力も得て長州を抑える

 

同じ年の2月、同じく東から京へやってきていた人たちがいました。新選組(当時は浪士隊と呼ばれていました)のメンバーです。3月になると容保は幕府から浪士たちの〝差配〟を言い渡されます。こうして浪士たちは「松平肥後守殿預浪士」という肩書を得て、会津藩預かりとなり、京の町の警固にあたることとなりました。そして八月十八日の政変(会津藩など公武合体派が尊皇攘夷過激派=主に長州を追放したクーデター)でも活躍。会津藩から「新選組」の名が与えられます。これが新選組の誕生。会津藩は新選組を生み、育てた親のようなものです。

 

その後、起こったのが池田屋事件です。

長州をはじめとする過激な尊王攘夷派を襲撃します。この行動に会津藩も同行するはずでしたが、会津の到着を待ちきれず、新選組が「御用改めである!」と行ってしまったのです。

 

なぜ会津藩が遅れをとってしまったのか。理由は、長州との関係性を考えてのことでした。正面からぶつかり合えば、長州の恨みを買い、事態の悪化を招くのではないか。容保は孝明天皇と徳川慶喜にお伺いを立ててからと考えます。容保の真面目な性格の現れです。これに手間取り、会津藩が到着したときにはすでに近藤らは突入し、戦いは始まっていました。会津藩士たちは、結局戦闘には参加せず、池田屋を取り囲んでいたそうです。しかし、いくら会津藩が直接戦っていないといえども、新選組=会津です。結果的に、長州藩は会津藩への憎しみを増大させます。

 

「幕府を倒せ」「まずは京都にいる容保を討つべし」。長州VS会津・薩摩(朝廷・幕府)、そんな対立の構図になってしまいました。

 

そして、憎しみを募らせた長州藩が、幕府方への反撃に出るのが蛤御門の変(1864年禁門の変とも)。長州は御所へと向かって攻め込んできたのです。このとき、会津藩は御所を守って応戦。薩摩藩の協力を得て、難局を乗り切ります。しかし、元々病弱だった容保は体調が悪化。財政も逼迫します。会津から遠く離れた京に何年もいれば、体もお金も限界でした。まさに火中の栗を拾ったかたちの会津藩。容保は何度も京都守護職の辞任を申し出ていますが、受け入れてはもらえません。

 

大政奉還~鳥羽伏見の戦い。いつのまにか「朝敵」と呼ばれることに…。

 

慶応3年(1867年)になると、すでに将軍は徳川慶喜となり、孝明天皇は崩御され、明治天皇の時代になっていました。この間、幕府はというと、対外的には外国船の対応、対内的には長州征伐と、相変わらずてんやわんやでまとまりません。そうこうしているうちに、長州は宿敵・薩摩と手を結びます(薩長同盟)。時代のうねりが激しすぎて、実直な容保には、薩摩や長州のようなしたたかな立ち回りはできなかったのかもしれません。

 

将軍・徳川慶喜は大政奉還を決意します。慶喜は徳川家を中心とした新たな体制を作るつもりでした。二条城での大政奉還の表明に先立ち、容保をはじめ、幕臣たちは事前に意見を聞かれています。容保は反対する幕臣たちをなだめたとか。朝廷と幕府の間で苦労を重ね、諸藩の対立状況をよく知る容保には、大政奉還が事態打開の一筋の光に見えたかどうか…。もちろん二条城での大政奉還の表明の場に、容保も出席しています。邨田丹陵が描いた「大政奉還図」で見ると慶喜から見て左側の一番手前にいるのが容保です。

 

ようやく徳川家を中心とした新しい政治体制が築かれる…容保はそう期待したでしょう。しかし薩摩は行動を開始。御所を守っていた会津藩の兵を追い出し、御前会議を開き、徳川慶喜の官位辞退と領地の返上を決定。慶喜おろしのクーデターです。いつの間にか、薩摩・長州(朝廷)VS会津(幕府)になっていたのです。会津はあれほど頑張って務めてきた京都守護職を追われます。

 

藩士たちの怒りは当然のことです。京で薩摩と戦う! 藩士たちは二条城に集結。それでも、容保は徳川家への忠義を捨てません。大阪城に撤退する慶喜に、容保は従ったのです。

 

そして、大阪から京へと進軍。1868年1月3日、伏見で薩摩・長州軍と衝突し戦いが始まります。鳥羽伏見の戦いです。懸命に守ってきた京へ戦いに行く。時代に翻弄される会津藩士の気持ちは複雑であっただろうと思います。

しかし薩長軍の圧倒的な武力の前に敗走。わずか3日後の1月6日、徳川慶喜は大阪城を抜け出だし、船で江戸へと戻ります。その船には容保も乗っていました。京都の治安を守るべく、上洛したときには想像もしなかった江戸への帰還でした。

 

明治以後。現在も京を守る会津藩士たち

 

その後も、容保と会津藩士は戦い続けました。元号が慶応から明治になった9月、会津藩は新政府軍に城を明け渡しました。翌年5月旧幕府軍が五稜郭で降伏して、戊辰戦争はようやく終結しました。

 

こうして、新しい時代がやってきました。松平容保は謹慎期間を経て、日光東照宮の宮司などをしたのち、明治26年、59歳で亡くなりました。

 

会津武士を表す言葉に「義に死すとも、不義に生きず」というフレーズがあります。まさにこの言葉に散った会津藩士のお墓は、京都守護職として本陣を置いた金戒光明寺にあります。

 

高麗門の横に「会津藩殉難者墓所」の石碑があり、境内に入ると、「会津墓地参道」の小さな石碑が、墓所まで案内してくれます。

 

坂をずっとのぼった山の上に墓所はありました。同じ敷地内には容保の石像も。容保に見守られるようにひっそりと佇むたくさんの墓標を見ると、およそ150年前に京都で「義」のために命を落とした藩士たちに、手をあわさずにはいられません。

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

 

〈スポット〉

金戒光明寺 会津藩殉難者墓所

京都市左京区黒谷町121

 

京都府庁 京都守護職上屋敷跡

京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町

 

 

〈参考文献〉

新選組と会津藩 星亮一(2004年 平凡社)

松平容保とその時代 京都守護職と会津藩 星亮一 (1984年 歴史春秋社 )

新選組 大石学 (2004年 中公新書)

松平容保の生涯 小桧山六郎 (2003年 新人物往来社)

Information
店舗・施設名 京都府庁 京都守護職上屋敷跡
住所 京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町

Writer 株式会社文と編集の杜

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Writer 株式会社文と編集の杜

歴史が好きなライター・瓜生朋美が2013年に設立した編集・ライティング事務所。「読みものをつくること」を業務に、インタビュー、観光系ガイド、広告記事、書籍など、ジャンルを問わず企画・編集・ライティングを行っている。近年は、歴史イベント運営や広報物の制作も担う。2020年オフィスに表現を楽しむスペース「店と催し 雨露」を併設。イベント開催するほか、雑貨の販売も。
WEB:http://bhnomori.com/

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