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2019.12.02

新選組が活動したのは、1863年から69年のわずか6年間。ご存知、局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊長沖田総司などなど、名前を聞いたことのあるタレント揃い。最も多いときで200人ほどいたというから、大組織です。

その新選組参謀だった伊東甲子太郎(かしたろう)が今日のお話の主人公。

石碑は、「伊東甲子太郎外数名殉難跡」。彼が亡くなった場所、京都駅から徒歩10分ほどのところにある本光寺というお寺の前に立っています。甲子太郎は、自らが所属していた新選組の隊士によって、謀殺されてしまいました。この石碑は昭和46年、京都市によって建てられたものです。

 

 

 

学問にも、剣術にも秀でていた勤皇派の志士

伊東甲子太郎は、常陸国、今の茨城県の生まれ。江戸時代には禄高1万石未満の武家「交替寄合表御礼衆」であった本堂家の家臣を務めた鈴木家の出身です。学問もでき、少年時代に水戸に遊学して剣をならい、さらにその後江戸でも北辰一刀流の伊東誠一郎に入門。伊東誠一郎の娘と結婚し、道場を継いで、伊東姓を名乗っていました。北辰一刀流は坂本龍馬など幕末の志士が多く入門していますので、かなり人気があったのでしょうね。

 

そんな甲子太郎が、新選組に入ったのは、1864年8月。もと門弟ですでに新選組隊士になっていた藤堂平助を通じて、近藤勇らと会い、入隊をすすめられたのです。1864年といえば、池田屋事件で京での新選組の存在感が急上昇。人数を増やし、勢力を拡大していた時期でした。

甲子太郎はガチガチの尊王攘夷思想である水戸で学んでいます。幕府のために(というよりも天皇のために)働く思いは、近藤勇と共通していたのかもしれません。この時は。。

 

新選組との決別。御陵衛士「高台寺党」として再出発

新選組に入ったものの、近藤勇と甲子太郎の意見の違いは、すぐに明らかになりました。

幕府が長州征伐の勅許を受けると、現地の状況を探るべく近藤勇や甲子太郎ら新選組の数人が広島から長州へと入ろうとします。結果的には、それはかなわないのですが、甲子太郎は、このとき、佐幕より反幕のエネルギーの方が大きいことを実感したのでしょう。長州に対して寛大な措置をとる説に立つようになります。もちろん近藤勇は長州には厳しく処するべき論者ですから、考え方としては相反する立場に。一緒に行った篠原泰之進の手記には、「伊東と私は、50余日滞在したが、しきりに徳川の悪政を討論した」と書かれているそうです。決定的な証言ですね。

 

しかし、新選組には5か条の法度があり、その一つが「局を脱するを許さず」。つまり一度入ったら、脱退することはできない、のです。そこで甲子太郎は策を練ります。

崩御された孝明天皇の御陵を守る役割を担うことを朝廷に申し出たうえで、近藤勇には表むきは分かれたように見せかけて、新選組のために活動するので、〝分離〟を認めてくれというのです。この理由付けを近藤勇が100%信じたかどうか…。そんなこともないのではないかと思いますが、とにもかくにも、伊東甲子太郎含めて16名(諸説あり)が、新選組から「御陵衛士」として分離。1867年、3月のことです。五条橋近くの善立寺(その後松原通大和大路東入ルに移転)を経て、6月、高台寺の塔頭、月真院へ拠点を移しました。このことから「高台寺党」と呼ばれています。

月真院前には、「御陵衛士屯所跡」の石碑があります。

 

 

やっぱり裏切りは許さない!?…油小路事件

時代は激動します。10月には大政奉還が表明され、11月15日には坂本龍馬が暗殺されます。油小路事件が起こったのは、そのわずか3日後でした。

 

11月18日午後。近藤勇に甲子太郎は呼び出されます。坂本龍馬暗殺の一報は伝わっており、警戒していたでしょうが、礼儀を重んじる甲子太郎は出かけていきます。行った先は、醒ケ井通木津屋橋通下ルにあった近藤勇の愛妾の家。ここで、近藤勇、土方歳三ら、新選組幹部と酒を酌み交わしました。襲われたのはその帰り道です。待ち伏せしていた新選組隊士に襲われ、油小路七条下ルの本光寺の前で絶命。惨劇はこれにとどまりません。亡くなった甲子太郎を路上に放置し、「遺体を引き取りに来い」と、町役人を使って月真院にいる高台寺党の仲間に連絡させました。

 

月真院ではその報を受け、遺体の引き取りに行きます…が、

 

「やったのは新選組だろうから武装して行くべきだ!」

「いやいや、大げさに武装して、やられたら臆病と笑われる。平服で行こう」

 

と話し合った結果、7人は平服で行くんです。武士ってわからないですよね。結局待ち伏せしていた新選組隊士と戦闘になり、3人が亡くなってしまいます。

 

これが油小路事件です。

 

近藤勇を襲撃。時代は鳥羽伏見の戦いへ

なぜ、新選組は伊東甲子太郎を狙ったのか。この段階でさほど影響力があったとは言えない高台寺党を…。やはり離反者に対する恨みだったのでしょうか…。それははっきりしませんが、反対に高台寺党の残された人々による近藤勇への恨みは募りました。

 

油小路事件のあと、高台寺党の人々は薩摩藩邸にかくまわれます。もう明らかに反対勢力です。そして、今度は近藤勇襲撃を企てます。

 

12月、伏見(現在の藤森神社近くとも)で近藤勇を待ち伏せし、民家から狙撃。ひるんだところを斬りかかるというものでした。この襲撃は成功したものの、近藤勇の命を奪うには至りませんでした。

 

そしてこの半月後、鳥羽伏見の戦いが始まり、幕府と討幕派は直接対決。しかし、近藤勇は、出陣できなかったとか。12月に襲われたときの傷がかなり重く、戦えなかったのです。高台寺党の仇討は成功しませんでしたが、日本史の行方を決める大きな戦いに、役者を一人欠くことには成功したのです。

 

※伊東甲子太郎外数名殉難跡

京都市下京区油小路通木津屋橋上る東側(本光寺前)

※御陵衛士屯所跡

京都市東山区下河原町(月真院前)

 

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

 

 

〈参考文献〉

『新選組 高台寺党』市居浩一(2004年 新人物往来社)

『新選組 最後の武士の実像』 大石学 (2012年 中央公論新社)

 

 

Information
店舗・施設名 伊東甲子太郎外数名殉難跡
住所 京都市下京区油小路通木津屋橋上る東側(本光寺前)

Writer 株式会社文と編集の杜

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Writer 株式会社文と編集の杜

歴史が好きなライター・瓜生朋美が2013年に設立した編集・ライティング事務所。「読みものをつくること」を業務に、インタビュー、観光系ガイド、広告記事、書籍など、ジャンルを問わず企画・編集・ライティングを行っている。近年は、歴史イベント運営や広報物の制作も担う。2020年オフィスに表現を楽しむスペース「店と催し 雨露」を併設。イベント開催するほか、雑貨の販売も。
WEB:http://bhnomori.com/

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