2018.09.05

お盆が明け、お精霊さんを送るとともに一気に秋の様相でしたが、このところまた暑さのぶり返し。残暑が厳しくなってきています。

東京から京都に移住してもう2年。今回は、わたしが京都に移住したきっかけになった人物にまつわるお話をさせてください。

 

梅棹忠夫(1920~2010)という京都人です。

京都大学教授でしたが、大阪・千里に国立民族学博物館を創設するのに尽力し、1974年に創設されると初代館長になりました。

その卓越した研究組織の運営手腕により、じつに19年間も館長に職にありました。今回は登場人物を「先生」と呼ぶのをお許しください。わたしは1994年に先生を初めて訪ねました。大学や研究所という組織で、先生の学生だったわけも部下であったわけでもありません。まったく個人的な思いから先生の門を叩くと、本当に運がいいことに門は開かれ、亡くなる直前まで貴重なお話をたびたび聞かせていただいたのです。

そのお話を軸にして、2011年には評伝『梅棹忠夫 未知への限りない情熱』(山と溪谷社)をまとめさせていただきました。

 

80歳の頃。国立民族学博物館梅棹資料室にて。撮影/村越元

 

「京都学派」と呼ばれる一群の研究者たちがいます。

東京大学に対抗するように設置された京都大学を拠点に、西欧の学問の翻訳主義ではなく、東洋、日本の伝統的な学問も視野に入れ、独自の学を築いた人びとです。梅棹先生は、京都学派の巨星のひとりでした。

細かくいうと、京都学派でも戦前と戦後では違い、梅棹先生たち戦後の研究者は新京都学派と呼ばれる場合があり、新京都学派の特徴は、学者であるだけでなく誰もが登山家、探検家だったことです。先生も戦前・戦中から世界各地を歩き、まだ地図に詳細が描かれていない地理学上の白色地帯の踏破まで成し遂げました。そんな旅の果てに、平易平明な独特の文体で書かれた『文明の生態史観』などの書物は、長年読み継がれ、今でも愛読者が絶えません。

わたしは、そんな先生の登山や探検の話を、とびきりのご馳走をいただくようなつもりでお聞きしました。残念だったのは、1986年に先生はウィルスに目をおかされ、わたしが訪ねた頃はすでに失明されていたことです。わたしは顔を覚えていただけませんでした。

 

玄関に店名が鉄筋アートで記されています。

 

北白川の自宅で執筆に勤しむ梅棹先生。

 

梅棹先生は西陣の生まれです。

生家は千本通に面し、履物店と小間物店を営んでいたそうです。幼い頃から神童といわれ、戦前にあった飛び級制度を使って16歳で旧制高校に入ってしまいました。これは、現代でいえば高校を通り越して中学から大学に行ってしまうのと同じことです。そして、あの厳しい戦争を生き抜いて、戦後になって大学の職を得ると京都大学農学部の北、左京区北白川伊織町に居を構えました。1949年のことです。

先生は、書斎にこもるだけの学者ではなく、旅から旅の生活を研究の基本にするとともに、語らいの中にいることを愛しておられました。お酒も好きで、店で飲むより自宅に人を招いて飲むことを愛していました。ですから、北白川の家はたくさんの人が集まったそうです。

しかも、学者仲間だけではなく、作家、ジャーナリスト、学生など多士済々。飲めば談論風発で、集いの中からさまざまな企てが生まれました。日本史上最初の学生探検部である京大探検部、国立民族学博物館の創設、さらには大阪万国博の大会理念の構築などなど、人知れず梅棹先生の家が重要な役割を果たしてきたのです。

 

ロンドクレアントの展示室。20坪ほど。

 

北白川の家は、梅棹先生が国立民族学博物館の館長になって大阪・千里にお住まいになられてからは、人に貸したり、先生のお孫さんたちが合宿するように使ったりすることになり、ずいぶん荒れました。それを、2015年に先生の次男のマヤオさんが一大決心をして改装することにしたのです。

マヤオさんは長く南丹市の美山町を拠点に活動してきた陶芸家。ご自身の作品発表の際にギャラリーとお付き合いしてきたので、北白川の家を有効活用しようと思ったとき、ギャラリーがいいと思いついたそうです。こうして貸しギャラリー&カフェ「ロンドクレアント」が始まりました。2015年8月のことです。

 

 

 

この春にロンドクレアントは再び改装。中庭の東側の離れ座敷は茶室。右は北白川の家の庭で遊ぶ梅棹先生。枯山水の庭は当時の京大探検部員だった吉村元男さんが設計。吉村さんはその後、庭園設計の大家になった。

 

開業前の改装は、プロの設計者や大工さんを入れながらも、素人のボランティアが入れ替わり加わって行ないました。その頃わたしは暇を見つけては東京から通ってきていましたが、開業してから「本格的に手伝ってくれはしませんか」とマヤオさんがおっしゃられ、ちょうど老母を無事に看取り、ふたりの子どもも独立したので、思い切って京都に移住したのです。

マヤオさんの運営方針は貸しギャラリーとカフェでしたが、ときには自主企画もやろうということで、これまでに展覧会、映画会、トークショー、茶会などを実施しました。また別の仲間がコンサートを企画運営し、こちらのほうは現在、定期化しており月1回のペースで開催しています。梅棹忠夫先生にちなんだ催しも行ないました。先生には今や大きな業績を挙げ、その道の大家になったお弟子さんたちがたくさんいらっしゃいます。食事文化研究の石毛直道さん、遊牧民研究の松原正毅さんなどは、京大の学生時代から梅棹先生を慕い、この北白川の家に集まった方々です。そうした方々は、ロンドクレアントに昔を感じ、当時の再現のような企画を考えますと積極的に力を貸してくださいます。

これは東京にいる頃から感じていたのですが、京都の学者の方々は懐が深い方が多いんです。わたしのようなどこの馬の骨かわからないようなものが、疑問を持ち、それを解消したいと門をたたくと、どんな高名な方でも門をかけてくださるのです。これまでどんなに助けられたか。梅棹先生はその筆頭で、それがお弟子さんにも引き継がれたのでしょうかね。ど素人の無邪気な質問にも真剣に向き合い、気がつくと深遠な世界に導かれる。これまで、そんな経験を何度もしてきました。

 

左は展覧会、右はコンサート。小さなスペースながら、さまざまに工夫してイベントが繰り返される。

 

こうして開業当初からの活動を改めて見直してみると、ギャラリーというよりフリースペースといったほうがいいですかね。ただ、節操がなかったわけではありません。マヤオさんには、幼い頃のこの家の記憶がありました。いろんな分野の人が集まり、なんてことのない話から人間の本質に迫るような話に展開し、やがて宇宙にまで話が及ぶ。さらに策謀家、夢想家のように大きな夢を語り、若く無名だった人びとが、夢を実現していき大家になっていく。かつて父親の梅棹先生が存命のときの北白川の家を再現したいという思いが当初からあったんです。ですから、集まるアーティストや学者たちはみんな大きな夢を持っているんです。

最後になりましたが、店名のロンドクレアンのこと。これはエスペラント語です。かつてポーランド人のザメンホフが、英語やフランス語などに全世界が侵されることを危惧し、言語帝国主義に抵抗すべく開発した人工言語です。

梅棹先生がエスペランチストだったことにちなみ、先生が愛した「ロンド」をまず冠しました。こちらは革命的な変革を思う小集団、小さな集いの意味。「クレアント」はクリエーターです。2度目の改装を終え、この9月からメニューを増やしてカフェとしても充実させようとしています。

ぜひ一度足を運んでみてください。

 

 

Information
店舗・施設名 ロンドクレアント
住所 京都市左京区北白川伊織町40 
電話番号 075-286-7696
営業時間 11:00〜19:00
休業日 月曜
交通 京都市バス「伊織町」下車徒歩約5分
駐車場 なし
ホームページ http://rondokreanto.com/

Writer藍野裕之

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Writer藍野裕之

フリーライター。
東京生まれで埼玉育ちながら、学術と芸術の都に憧れ続け、ついに50歳を過ぎて京都に移住。市内の東北、修学院離宮の真下に落ち着き、学芸三昧を目指して日夜そぞろ歩きを繰り返している。

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