今年も祇園祭の季節がきましたね。箪笥の奥から浴衣を出して、晴れ間を待って虫干ししたところです。年甲斐もなく浮き足立っていますが、よろしくお願いします。
わたしは夏の朝の香りが好き。
夏休みが待ち遠しかった少年の頃を思い出します。わたしの少年時代には、毎年夏休みの宿題に理科の自由研究がありました。
で、往時を思い出して訪ねたのが、「島津製作所 創業記念資料館」です。分析・計量機器、医療機器、そして航空機器を柱とする精密機器の製造で、今や世界各国に知られる企業ですが、その始まりは実験機器。明治、大正の頃の理化学実験機器があるというので、 “大人の科学”といった気分で木屋町二条に向かいました。
時代の変化をいち早く察知した島津源蔵。
源蔵は、江戸時代後半に筑前から京に上がって仏具職人となった島津清兵衛の次男に生まれました。
そして、父の跡を継いで仏具職人となり、20歳を過ぎて木屋町二条の地へ移り住んだのです。明治維新は源蔵29歳のときでした。この革命により、京は京都になりました。都市の名が変わっただけではありません。正式に遷都令が出ていないにもかかわらず、帝は革命政権の拠点である東京に移ってしまったのです。
明治という新しい時代に際し、京都人は変化を余儀なくされました。そんな激動の時代にあって、島津源蔵は変化にもっとも早く対応した京都人といえるでしょう。
上が明治28年(1895)頃。下が現代。
入口を入ると、まるで前時代の実験室のようなムードだ。
木屋町といえば四条界隈の繁華街を思い浮かべるのでは?
高瀬川に沿って酒場や飲食店がひしめき合っています。この高瀬川の流れとは逆である北に向かいます。
三条を過ぎ、御池通を渡ると繁華街の様子は少し薄くなります。そして、木屋町二条に「島津製作所 創業記念資料館」が建っています。ここは、源蔵や家族の居宅であり、創業した島津製作所の社屋でもありました。世界に名を轟かせる企業が、それほど大きくもない木造建築から始まった、しかも木屋町に、と驚くはずです。
でも、明治初期の京都では、この地はビジネスの好立地でした。製造した商品は高瀬川を使って各地に輸送することができたのです。
ちなみに高瀬川は江戸時代初期、角倉了以、素庵父子によって開かれた運河です。木屋町二条近くが鴨川分流からの取水口となり、伏見まで続いています。
19世紀の理化学実験機器。
「島津製作所 創業記念資料館」の中は薄暗く、館内には奇妙な機械、機器が点々と陳列されています。
源蔵がまず始めたのは理化学実験機器の製造でした。現在の分析・計量機器の原初のものといえるものです。
近代化を目指した明治の日本にとって、殖産興業を支える科学者、技術者の養成は急務。木屋町二条には、そんな人材の養成所であり、科学技術の研究所でもある施設が立ち並びました。それら会社の近隣施設が源蔵の作った商品の納品先だったわけですが、源蔵は商売だけを考えてこの地に移って理化学実験機器の製造を始めたとは思えません。むしろ、今後の京都、果ては日本の発展を占う科学者と技術者の養成を、新生京都、新生日本とともに進めようという志の方が大きかったと思います。
なぜなら、簡単に理化学実験機器といいますが、その設計から製造までのプロセスは並大抵のことではなかったからです。
レントゲン
それにしても、古い理化学実験機器は面白いものです。わたしたちが学校で慣れ親しんできたビーカー、メスシリンダー、望遠鏡などといった機器とはまったく違ったかたちをしています。もちろん、高度な実験となれば機器も高度なものになるわけですが、陳列されている機器の中には、可愛らしいデザインの機器もあり、ガラスの危機には不思議としかいいようのないものさえあります。
資料館の案内役である神村あかりさんが説明してくれました。「18世紀から19世紀の西洋では、好事家が人を集めて珍しい現象を見せるということが行われていました。その伝統を引き継いだめいじ、大正の実験道具には、デザインなど機能以外の要素へのこだわりも見られます」
資料館は、こうした創業当初の理化学実験機器から始まり、1970年代までの約100年の間に、医療機器、高度な分析・計量機器、そして航空機器へと発展した島津製作所の歴史が、機器を通じわかる展示になっています。
X線の発見から23年後という早さで開発した医療用X戦装置。「ダイアナ号」と名付けられる。実際に触れられるので透視台にわたしも構えてみた。
源蔵が家族で過ごした居室も残っている。
19世紀から20世紀の間に科学は目覚しい進歩を遂げました。
今も進歩は続いていますが、欧米に一歩遅れながら近代科学をスタートさせた日本で、研究、開発を支え続けてきたのが島津製作所です。
その歩みは大学と二人三脚だったそうで、とりわけ京都大学との連携が深かったそうです。学芸の都、京都を築き上げた縁の下の力持ちといえるでしょう。初期の実験機器からは、理化学実験の楽しさを伝えようとする源蔵の意思を感じます。子どもたちをどんどん科学の世界に引き込もうとしたのでしょう。
そんな源蔵の思想は、その後もずっと引き継がれたようです。企業としての地盤を確立し始めると、自社の中にも研究者を抱えるようになりました。研究と研究の方法論を自前で構築し、そのための危機まで開発しようというわけです。
この基礎研究から機器製造までという、科学の川上から川下まで携わるポリシーは、2002年に大きな栄誉を得るまでに実を結びました。社員のひとり、田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞したのです。大学ではなく企業の研究者の受賞に世間は驚きました。資料館では、田中さんのインタビュー映像も観ることができます。映像では、あの飄々とした田中さんが「わたしは実験が好き」といっています。その言葉を源蔵が聞いたら、どんなに喜んだことでしょう。
子どもたちの科学離れがいわれる昨今、わたしたちはもう一度、島津源蔵の取り組みを振り返ることが必要かもしれません。
店舗・施設名 | 島津製作所 創業記念資料館 |
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住所 | 京都市中京区木屋町二条南 |
電話番号 | 075-255-0980 |
営業時間 | 開館時間 9:30〜17:00(入館受付は16:30まで) 休館日 水曜(祝日の場合は開館、翌火曜休館)、年末年始 |
料金 | 入館料 大人300円、中高生200円 小学生以下は無料 |
ホームページ | https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/ |
Writer藍野裕之
Writer藍野裕之
フリーライター。
東京生まれで埼玉育ちながら、学術と芸術の都に憧れ続け、ついに50歳を過ぎて京都に移住。市内の東北、修学院離宮の真下に落ち着き、学芸三昧を目指して日夜そぞろ歩きを繰り返している。