龍馬と幕末歴史マップ<伏見編>
坂本龍馬と伏見の龍馬関連スポット
酒造メーカーの酒蔵が立ち並ぶ伏見の街は、現在でも、ふいに辻から幕末の志士が飛びだしてきそうな雰囲気が残っています。そんな伏見にある龍馬ゆかりのスポットをご紹介。
伏見のまちの重要性 歴史地理研究者 中村武生
伏見のまちの歴史は、豊臣秀吉によって開始されます。それ以前はさびれた宇治川の漁村にすぎませんでした。京都から伏見へ移ってきた秀吉は、ここに城と城下町を建設します。宇治川から船に乗ればすぐ大坂に出ることができます。大坂からは西国でも東国でも行けます。伏見の立地のよさは京都の比ではありません。
城下町には全国の大名の自宅もつくられました。徳川家康も伊達政宗も上杉景勝も直江兼続も、みな住まわされました。京都とは別の、武家の首都が生まれたのです。
徳川時代になってもそれはひきつがれます。徳川政府はいきなり江戸に出来たわけではありません。豊臣政権の拠点伏見を引き継がず、大坂の豊臣秀頼から権力を簒奪することなどできなかったのです。徳川家康・秀忠・家光は、ことごとく伏見城で征夷大将軍に任じられています。江戸城ではありません。当然、洛中の二条城でもありません。この事実がすべてをものがたっているでしょう。
が、豊臣秀頼が滅び、徳川体制がゆるぎなくなると、伏見に徳川将軍が来る理由はなくなり、家光期に廃城となります。 しかし伏見のまちの重要性はかわりませんでした。それは参勤交代のルートに設定されたからです。
徳川政府は西国大名が江戸へやってくる際、京都へ立入ることを禁じました。朝廷に接触することを嫌ったからです。大名は大坂から伏見に入り、伏見街道を北上し、京都には入らず、山科から大津へぬけ江戸を目指したのです。
そのため伏見城時代とは別に多数の大名屋敷が建設されました。昨年の大河ドラマの主人公、島津斉彬の養女篤姫は、一週間だけ洛中洛外に滞在しましたが、その宿舎は伏見薩摩屋敷でした。
幕末、京都がふたたび政治都市になると、伏見の重要性はさらに高まりました。西国大名が京都へ入るとき、伏見はその玄関口になるからです。たとえば元治元年(一八六四)の禁門の変では、京都をめざす長州勢の中心は伏見毛利屋敷に布陣しましたし、慶応4年(一八六八)の鳥羽伏見戦争でも京都を追われた徳川勢は伏見におりました。
坂本龍馬ゆかりの寺田屋は、その伏見港にあった多く船宿のひとつでした。いまもって当時の屋号をなのり宿屋を行っている点は何をおいて意義深いことといえます。