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第8回 龍馬・お龍の出会い

~龍馬・お龍の出会い~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

東海道の終点である三条大橋

東海道の終点である三条大橋
日本中を駆け巡っていた龍馬も
何度も通ったことでしょう。

元治元年(1864)5月頃 龍馬(30歳)は、お龍(24歳)とはじめて出会います。京都洛東三十三間堂の南側、大仏南門通(東山区塩小路東大路西本瓦町付近)に龍馬ら土佐亡命志士たちが隠れ住んでいました。そこに賄いとしてお龍の母お貞が末娘の起美(君江)と住み込みで働いていたのです。近くで働いていたお龍もたびたび母を訪ねていましたので、龍馬と出会うことになります。
お龍の回想録「反魂香」を読んでみましょう。


龍馬とお龍の出会い~反魂香より~

彼の大和の戦争(天誅組の乱)に敗れました義兵が、京都大仏南の門今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて、表札に『水口加藤の家人住所』と記して、しばらく世の有様をうかがって居りました、その隠居処へ出入する人の名をあげますと、坂本龍馬、中岡慎太郎、北添佶摩、望月亀弥太、大里長次郎、管野覚兵衛、池蔵太、安岡忠綱、山本覚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等で、この時分には、いまだ海援隊を編成しなかったのです。
  会津の奴等は絶へず眼を八方に配って、浪人の詮議がきびしいものですから、右の人々は安閑と、大仏に居る訳には、ゆきません。でちょっと来てはすぐ処をかえてしまうので隠居処は、山本甚馬が年寄りですから台所を受持って居りましたが、どうも男世帯は思う様にゆかず、かつ山本とても安楽な身ではありませんから、時々家を明けるのでそれでは誠に不都合だから、年寄りで誰か一人気の利いた女を、留守居に頼みたいと、一同が思って居りました。
  ここに、かのお龍の母お貞は、夫に死に別れましたので、少しばかりの家財をまとめ、四条の、うら通りに借家してわびしく暮して居りました。此お貞の知人で、その以前非常に世話をしてやつた、米一のお菊という後家がありましたこの女はなかなかの腕達者で、夫の死後もやはり大勢の奉公人を使って、盛んに米商を営んで居ります、でお菊が大仏へ出入して居るものですから、浪人の人人が、留守居の女を一人世話してくれぬかと、頼みましたので、お菊は此事をお貞に相談したのです。お貞も奈良崎将作が妻、勤王の女丈夫ですから、早速承知はしましたが、さて三人の子の始末をつけねはならぬので、長女のお龍はお菊の世話で、七条新地の扇岩と云う旅宿へ手伝方々預け、次男の大一郎は粟田の金蔵寺(親戚)へ預け、末女の君江を自分が連れて大仏へ引き移りました。

ふたりの出会いの場、三十三間堂南大門のあたり

ふたりの出会いの場、三十三間堂
(蓮華王院)の南大門のあたり

 お貞が大仏へ引き移って坂本に面会をした時に、一家の不幸や身の上話しをしたものですから坂本も、気の毒に思って、それにお龍には、一二度会って、少しは心も動いたものですから、「お前の娘を私にくれんか、さすれば、及ばずながら力にもなってやろう」との言葉に、お貞も娘には遅かれ早かれ夫を持たす故、同じ夫を持たす位なら、坂本の様な人をとお貞も喜びまして、お龍にこの事を話しますと、「厭にはあらぬ稲舟の」(菊岡検校作地唄「今小町」の一節)という、お定まりの文句で、遂にお龍は坂本の妻と定まりましたが、しかし、大仏に置く訳にはゆきませんから、矢張り扇岩へ預けておきました。
(反魂香 第二回 明治32年4月20日発行)

龍馬も、慶応元年9月9日付姉乙女宛の手紙でお龍のことを報告しています。

龍馬とお龍の出会い~反魂香より~

楢崎将作(青蓮院宮待医)と申す医師、それも近頃病死なりけるに、その妻とむすめ三人、男子二人、其男子太郎はすこしさしきれなり。次郎は五歳、むすめ惣領は二十三、次は十六歳、次は十二なりしが、本十分大家にてくらし候ものゆえ、花いけ、香を聞き、茶の湯おしなどは致し候得ども、一向 炊ぎ奉公する事はできず。
(中略)  
それはさておき、去年六月 望月亀弥太らが死し時、同志の者八人ばかりも皆望月がごとくに戦死したりし。 そのまえこの者ら今の母むすめが大仏あたりに養い隠し、女二人してめしたきしてありし。
(姉乙女・おやべ宛 慶応元年9月9日)

【意訳 】
近ごろ亡くなった楢崎将作(青蓮院宮待医)という医師には妻と娘3人、息子2人がいた。長女は23歳、次女は16歳、三女は12歳であるが、もともと裕福な育ちで、いけばな、香道、茶道などはたしなむが家事炊事はできなかった。 昨年6月望月亀弥太らが池田屋事件で遭難した折、同志8人もおなじように戦死した。 そのころ望月らをこの母娘が炊事賄いをして養っていた。

この後、ふたりは元治元年(1864)8月1日東山青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言を挙げることになるのです。その頃の足跡については 第5回 龍馬とお龍の「内祝言」を参照ください。

次回はいよいよ龍馬最期の地・近江屋に迫ります。

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三十三間堂南大門周辺へのウォーキングルート

京都市東山区塩小路東大路西入 本瓦町付近

  • 京阪本線「七条駅」下車。七条通りを東へ向かい、三十三間堂前を南へ。徒歩約10分。

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


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