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第7回 近江と龍馬(2)

~近江での龍馬の足跡~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

近江は西国から東国へ向かう(逆もおなじ)道のりでは必ず通過するところです。古くから栄えた宿場町がいくつもあります。大津、膳所、草津、石部、水口、土山などです。大坂から江戸へ下るには京都を通り今の三条から蹴上、逢坂山を越え大津に到る東海道。伏見から山科へぬけ追分から大津に到る伏見街道(大津街道)。伏見街道から渋谷越、東海道を経て大津に到るなど、いくつもの道がありますが近江を通過せずには江戸へは下れません。

旧東海道沿いに建つ大津祭の山鉾

旧東海道沿いに建つ大津祭の山鉾

坂本龍馬は19歳の時、江戸へ剣術修行に行きます。どの道を通ったのかは特定できませんが、その行き帰りには近江を通過したことは間違いありません。22歳のときにも再度、江戸へ剣術修行に行きます。
  文久2年(1862)3月には土佐を脱藩して8月には江戸に下り、千葉定吉道場に寄宿することになります。

史料から、龍馬の足跡をたどってみましょう。


高知から江戸へ 

嘉永6年(1853)3月4日 龍馬(19歳)

江戸修行を土佐藩執政・福岡宮内(くない)(孝茂)(1827~1906) に願い出、出立の前日16日に国境の通行手形を藩役所から受けとる。「福岡家御用日記」 17日出立

土佐帰着

嘉永7年(1854)6月23日 龍馬(20歳)

剣術修行満期で江戸より帰国。「武芸為修行去三月より今六月迄御暇を以江戸表江罷越居候処、昨夜到帰着候」(6月24日『福岡家御用日記』)。

高知から江戸へ

安政3年(1856)8月20日 龍馬(22歳)

剣術修行のため、江戸に再度出立。前日の19日に通行手形を受け取る。(『福岡家日記』)

土佐帰着

安政3年(1858)9月3日 龍馬(24歳)

剣術修行を終え土佐に帰国。「先年以来御暇継を以為武芸修行江戸表に罷存候処、昨日到帰着候旨届出候事。」(『福岡家御用日記』)

亡命(脱藩)

文久2年(1862)3月24日 龍馬(28歳)

沢村惣之丞とともに亡命。

江戸へ

文久2年(1862)閏8月22日 龍馬(28歳)

江戸に下り、千葉定吉道場に寄宿する。(『維新土佐勤王史』)

 

これ以降、少なくとも5回は江戸へ行っています。ただし、勝海舟の門弟になってからは船で往来することが出来るようになっているので、陸路近江を通過したかどうかは定かではありません。

交通の要所にあるのは「瀬田の唐橋」

交通の要所にあるのは「瀬田の唐橋」

元治元年(1864)ごろからは京都を中心に活動するようになります。
  龍馬は、越前福井へ三回は行っています。京都から小浜へ行くには若狭街道(鯖街道)もありますが、大坂から福井に行くには近江を通過しているはずです。慶応3年10月には岡本健三郎宛の書簡の中で「大津」の名前が出てきます。
これも史料を確認してみましょう。


大坂から福井へ

文久3年(1863)4月16日 龍馬(29歳)

幕臣大久保一翁に託された春嶽宛ての親書を持ち、大坂を出立、越前福井に向かう。(『海舟日記』)

文久3(1863) 5月16日 

海軍塾(勝塾)建設の資金援助を依頼するため、越前福井の松平春嶽の元へ京都から出立する。(『海舟日記』)

京都から福井へ

慶応3(1867) 10月24日 龍馬(32歳)

岡本健三郎に手紙を書く。「あなた及び私、家来一人、しめて三人、午前4時ごろでかけるのでそのつもりで、大津のほうまで先触れお出し下さい」(10月24日付岡本健三郎宛龍馬書簡)

慶応3(1867) 10月28日

岡本健三郎ら越前に到着。越前藩監察・村田巳三郎に面会。(『越前藩幕末維新公用日記』)

慶応3(1867) 11月5日

福井より京に到着。(『神山郡廉日記』)

 

龍馬の足跡をたどってゆくと、改めてその活動範囲の広さに驚かされます。当時、最速の交通手段であった「船」を最大限に活用していたこともよくわかり、龍馬の先進性をうかがい知ることが出来ます。

「龍馬の足跡」を巡る旅、いよいよあと3回です。
第8回にご期待下さい。

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瀬田の唐橋へのウォーキングルート

滋賀県大津市瀬田2丁目~

  • 京阪石山坂本線「唐橋前」駅下車徒歩すぐ。
    徒歩で石山寺への移動も可能です。

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


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