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第3回 伏見の龍馬

~寺田屋事件の真相と龍馬の逃走ルートを追って~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

京都・伏見 寺田屋

元治元年(1864)八月一日、坂本龍馬(30歳)お龍(24歳)京都東山粟田 青蓮院塔頭金蔵寺にて住職知足院の媒酌により内祝言を挙げました。その後すぐに、お龍は伏見寺田屋に預けられ、これより慶応二年(1866)一月までお龍は寺田屋で暮らすことになります。 龍馬とお龍の出会いから祝言に至るまでのことは別項で述べることにします。

伏見の龍馬といえばまず思い起こされるのは龍馬が寺田屋滞在中に伏見奉行所の役人に襲われた寺田屋事件です。お龍が入浴中に外の様子がおかしいのに気づき裸のまま二階の龍馬に急をつげに行くというシーンで有名です。はたしてほんとうにそんなシーンがあったのでしょうか。


寺田屋事件「名シーン」の真相とは?

この事件の起こる慶応二年(1866)一月二十三日の前々日 一月二十一日には京都二本松の薩摩藩邸において龍馬が立会い薩長同盟は成立しました。
大仕事を終えた龍馬は意気揚々とお龍の待つ寺田屋へ二十三日の夜三吉慎蔵と共に帰ります。

この事件のことを記したものはいくつか残っています。事件直後の二月六日に龍馬から木戸孝允に宛てた手紙、三吉慎蔵の慶応二年正月の日記、お登勢から龍馬に宛てた手紙。お龍の回顧談「千里駒後日譚」第二回明治32年11月5日付土陽新聞などです。

龍馬が兄権平宛に慶応2年(1866)12月4日付けで差し出した、一年間に起こった出来事を報告する手紙のなかに襲撃の様子が詳しく書かれています。
その部分を現代語に翻訳してみました。

「伏見の難は、去る正月二十三日(新暦の3月9日)夜八ツ時半(午前2時半頃)ころでした。連れの三吉慎蔵と話して風呂からあがり、もう寝ようとしていたところ、ふしぎなことに、この時二階に居たのですが、しのびしのびに歩く人の足音が、階下からするように思いました。六尺棒の音もからからと聞こえてきました。その時、前に報告しました、今は妻である龍が、勝手より駆け上ってきてこういいました。用心してください、敵が襲ってきました。槍を持ったひとが数人階段をあがってきます。」

お龍の回顧録「千里駒後日譚」(第二回明治32年11月5日付土陽新聞)にはこう書かれています。

「女が風呂へ入って居るに槍で突くなんか、誰だ誰だというと、静かにせい、騒ぐと殺すぞというから、お前さんらに殺される私じゃないと庭へ飛び降りて、濡れ肌に袷を一枚引っかけ、帯をする間もないから、はだしで駆け出す(中略)裏の秘密階段から駆け上がって、捕り手が来ました、御油断はなりませんというと、よし心得たと三吉さんは起き上がって手早く袴をつけ、槍を取って身構え、龍馬は小松さんがくれた六連発の短銃を握って待ち構えました」

お龍は着物をはおっていたんですね。
龍馬はお龍が急を告げに来る前に、すでに敵が来ていることに気づいていたこともわかります。

寺田屋事件 龍馬の戦いの様子

寺田屋事件石碑

この当時龍馬は薩摩藩の庇護をうけ、薩摩藩士として行動していました。寺田屋は薩摩藩御用達の船宿です。
つぎに戦いの様子を龍馬は詳しく綴っています。

「それから私もたちあがり、はかまを着ようと思ったのですが次の間に置いてあったので、そのまま大小を差し短銃を取り、うしろの腰掛にさがりました。連れの三吉慎蔵は袴を着、大小の刀を差し槍を持って、腰掛にかける。間もなく、ひとりの男障子細めにあけ内をうかがう。見れば刀に手をかけていたので、何者だとききました、つかつかと入って来ましたが、すぐにこちらも身がまえたので、また引きかえしました。早次の間でもミシミシと物音がしたのでお龍に指図して、次の間又後の間のふすまを取りはずさせて見れば、早くも十人ばかり槍を持って立並んでいた。がんどう提灯(前方を照らすスポットライト) 二つ持ち、又六尺棒持った者が其左右に立っていた。

双方しばらくにらみあい、私が、どうして薩摩藩士に不礼を致すのかと申せば、敵は口々に上意なり、すわれすわれとののしりて進んで来た。こちらも一人は槍を中段にかまえ立った。敵に横から討たれると思い、私はその左へ立ち変わって立った。その時 短銃の撃鉄を起こし敵十人ほどの槍を持った一番右を初めに一つ撃つと、この者は退いてしまった。又その次なる者を撃つとその敵も退いた。その間敵は槍をなげ突け、又火鉢をなげ込んだり色々たたかった。味方もまた槍を持ってふせぐ。家のなかの戦いは実にやかましくてたまりませんでした。

その時また一人を撃ちましたがあたったかどうか分からないでいたところ、敵の一人が障子の蔭より進んで来た。脇差で私の右の親指の根本をそぎ左の親指の関節を切割り、左の人差指の根本の関節を切った。元より浅手であったので其の者に銃をさし向けたが、手早く又障子の蔭にかけ入ってしまった。

さて前の敵まだ迫り来るので、又一発撃ったがあたったかどうか分からない。この銃は元より六連発でありますが、その時は五発のみ込めていたので、実にあと一発かぎりとなり、是大事と前を見ると今の一戦で敵少ししらんだようだ。一人の敵黒い頭巾を着、たちつけ袴をはき、槍を平正眼のようにかまえ近よって壁に添って立っている。それを見て又撃鉄を上げ、慎蔵が槍を持って立っている左の肩を銃の台にして、敵の胸をよくねらって撃つと、敵は弾にあたったと見えて、唯ねむってたおれる様に前にはらばう如くたおれた。

この時も敵の方は実にドンドン障子を打破るやらふすまを踏破るやら物音すさまじく、しかしながら一向に手元には来ない、この間に銃の弾を込めようと銃の弾倉を取り外し、二発迄は込めたけれども先刻左右の指に傷を負い、手先が思う様にならなかったので、あやまって弾倉を取り落としてしまった。足元を探そうとしたが布団を引き散らかした上に、火鉢の灰など敵よりなにかなげ込まれた物と交ざって分からなかった。このとき敵は唯どんどん音を立てるばかりでこちらに向かう者はなかった。

それからは銃を捨て、慎蔵に銃は捨てたと言えば慎蔵は、こうなったら敵中に突き入り戦うべしという。私は、この間に逃げようといった、慎蔵も持っていた槍をなげすて後ろのはしごの段を下りて見れば、敵は唯家の店の方ばかりを守っていて進んでくるものはなかった。」

戦いの様子が映像を見るように伝わってきます。

寺田屋からの脱出経路

木納屋跡周辺

傷を負った龍馬は三吉慎蔵と寺田屋から脱出することになります。その経路も詳しく書かれています。龍馬はこの一週間ほど前に風邪を引き高熱をだしていて、襲撃を受けたときにはまだ十分に体力が回復していなかったようです。

「それより家(寺田屋)の後ろの塀をくぐり、後ろの家の雨戸を打破り内に入って見れば、実に家内のものはねぼけてにげたと見えて夜具などもひきっぱなしであった。気の毒ながら其の家の建具も何も引きはなし後ろの町にでようと思ったが、其の家随分丈夫な家で、なかなか破れなかった。両人して刀を以ってさんざんに切破り、足にて踏破りなどして町に出てみれば人一人もなし。是幸いと五町(約540m)ばかりも走ったが、私は病みあがりだったので、息がきれて歩けなかった、着物は足にもつれ、ぐずぐずしていたら敵に追い着かれる心配あり。
このとき思ったことには、男子はすねより下に垂れる着物は着るべからず。 この時は風呂より上がったままだったので、湯着を下に着て其の上にわた入を着、はかまは着る間なし。

やっと材木納屋にたどり着きました。このあと伏見薩摩屋敷から船で助けがやってきて無事龍馬は救出されることになります。この続きは次回お届けします。

京都の「龍馬の足跡」を巡る旅はまだまだ続きます。
第4回にもご期待下さい。

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京都・伏見「寺田屋」へのウォーキングルート

京都府京都市伏見区南浜町263

  • 京阪本線「伏見桃山」駅または近鉄京都線「桃山御陵前」駅下車。
    大手筋商店街を西へ進み、パッサージュ なやまち5番街との交差点を南へ。
    竜馬通り商店街を経て蓬莱橋手前を西(右折)へ。徒歩約20分

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


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