第10回 龍馬最期の地・京都~近江屋事件(2)
~そのとき、近江屋では何が起こったのか~
特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章
岩崎鏡川(いわさききょうせん)『坂本龍馬関係文書 第二』(日本史蹟協会 1926 )をもとに坂本龍馬遭難当日の様子をたどってみます。 岩崎鏡川は明治五年土佐生まれ、祖父に国学、漢学を学び22歳のころ上京し、東京私立英語専修学校卒業後、佐々木高行の秘書となりました。佐々木高行は土佐藩大監察で、坂本龍馬・後藤象二郎らと交流がありました。鏡川は佐々木高行や元海援隊士田中光顕らから龍馬について詳しく聞き取っていたのでしょう。「坂本龍馬関係文書」は事実を正確に伝えようとする鏡川の篤い思いが伝わってきます。
坂本龍馬遭難当日の様子
近江屋は元治の兵乱以来土佐藩の用達となります。醤油商を本業として、当代の井口新助は土佐だけではなく薩長の志士たちも支援しており、その家は志士達もよく集まるところでした。龍馬は慶応3年(1867)6月以来(6月24日付乙女・おやべ宛龍馬書簡)、河原町三条下ル東入ル北側材木商酢屋嘉兵衛方にいましいたが、前年伏見寺田屋に於ける遭難以来、龍馬は幕吏に追われる身となり身辺が非常に危なくなってきたので、土佐藩邸の堀内慶助はこれを気遣い近江屋新助に龍馬の保護を頼んだ。10月初旬龍馬が土佐より帰るのを待ってこの家に潜伏させました。(10月13日近江屋に移る『岡内の書簡抄』)
近江屋井口新助は裏庭の土蔵の中に一室をこしらえ、龍馬をここに入れて万一の時には、裏手誓願寺(原文のまま)の地内に逃れられるよう梯子を架け置き、寝具を整え食事迄この部屋に運び入れ、出入りの者にもその所在を知らせませんでした。しかし、大胆にも龍馬は日夜同志の間を往来していたものでした。 数日来、風邪気味で、用足しのため母屋まで降りるのが不便でしたので、14日の朝よりこの部屋を出て、母屋の二階、八畳の奥座敷に入いりました。15日には特に寒気を催すというので、下に真綿の胴着(新助の妻スミが龍馬のために四条の真綿屋にて買い求めたもの)を着て、舶来絹の綿入(龍馬が長崎にて買い求めたもの)をかさね、その上に黒羽二重の羽織を着ていました。終日家の中に閉じこもっていましたが六ツ時(午後6時)頃中岡慎太郎が龍馬を訪ねて来ました。 (「雋傑坂本龍馬」には、龍馬は、土佐藩参政福岡藤次の下宿〔近江屋の三軒南の造酒業大和屋〕を二度に渡り訪ねるが、不在。とある。) 慎太郎が龍馬を訪ねた用件は、子細はよくわかしませんが、宮川助五郎受取の手続きに関することもその一つであると思われます。
宮川助五郎は代々山内家に仕え馬廻役でしたが、武市瑞山等下士勤王党と結託して、文久2年(1862)10月、中岡慎太郎ら50余人と血誓し、山内容堂の護衛を名目として江戸に出て、尊攘のために力を尽くそうとしたとき、助五郎はその総頭の一人でありました。 助五郎は慶応2年(1866)8月、京都三条大橋西北の制札場に掲げられた長州を非難する高札を投げ捨て新選組に捕えられました。翌、慶応3年(1867)11月14日になって、会津藩より助五郎を土佐藩に返すという連絡がありました。土佐藩大監察福岡藤次はその処置が困難なので、中岡慎太郎に託しました。慎太郎はこのことを協議するため、この夜龍馬を訪ねたのでした。
菊屋峯吉は夕食後、中岡慎太郎から託った手紙をもって「薩摩屋」へ行きました。返書をもって「近江屋」にもどったのは、六ツ半(午後7時)ごろになっていました。表の八畳の間では龍馬の僕、藤吉が胡坐をかいて楊子を削っておりました。この藤吉はもと大津鹿関町の生まれで、本姓は山田氏。父は石灰の俵を編む仕事をしていましたが、早く没して家には母ひとりが暮らしていました。藤吉は京都に出て力士となり、雲井龍と名乗りました。先斗町の料理店魚卯の主人は藤吉を贔屓にしていたので、その家に引取り出前持ちとしていました。この魚卯には土佐藩士がよく出入りしていたので、藤吉は海援隊書記長岡謙吉に気に入られ其の僕となりました。謙吉の命により龍馬の付き人となります。龍馬が不在の折には近江屋のためにも陰日向なくよく働き家人にも重宝がられました。
龍馬は北側の床の間を脊にし、火鉢を間にはさみ、南を向いて中岡慎太郎と対面して座っていました。その右には行灯がありほのかに両人の顔を照らしていました。龍馬の顔は病後でしたので蒼白く、慎太郎の顔色は血肉緊張し紅色でした。両人は峯吉が入るとハタと話をとめて、視線は等しく峯吉に注がれました。慎太郎は峯吉より返書を受け取り、読み終わってむこうの様子などを聞いていたところへ岡本健三郎がやってきました。峯吉は龍馬のほうに進み寄り、健三郎は慎太郎のそばに座りました。
(右図:『坂本龍馬全集 第4版』813ページ、峯吉の回顧による龍馬、慎太郎、健三郎、雑談時の配置)
(夕方、土佐藩御用達の醤油商近江屋に中岡慎太郎が来訪し、岡本健三郎・菊屋峰吉も来る。中岡は、慶応2年9月18日に三条大橋で新撰組と激闘して捕われていた宮川助五郎の処遇を話し合うため、来訪したという。『殉難録考』)
雑談に花を咲かせて、小一時間もたったころ、龍馬は峯吉を顧みて「腹が減った、峯、軍鶏をこうて来よ」といいました。慎太郎も「俺も減った一緒に食おう。健三、貴様も食って行かぬか」といいました。岡本は「私はまだ欲しくない。一寸外へ行く所もあるから、峯吉一緒に出かけよう」というと、慎太郎は岡本を揶揄して「また例の亀田に行くであろう」といいました。亀田とは河原町四条下ル売薬商太兵衛のことです。其の娘お高は、美貌で諸藩の壮士等用もない薬を買いに行く者もが沢山いました。「亀田の前を横目もふらず、素通りのできるものは真の豪傑なり」といわれたほどです。いつの間にか岡本とは良い仲になっていたので慎太郎はこのように冷やかしたのです。岡本は頭を掻きながら「決して左様にてはなし、別に用事あり」といって峯吉を促し階段を降りかけた時、藤吉が表の八畳より声をかけて「何か御用ならば、私が行きましょう」といいました。峯吉は「イヤ何、俺が行く」と答えて、岡本と共に表に出て、四条の辻で別れ、四条小橋の「鶏新」につきました。「軍鶏を呉よ」というと、「今 軍鶏を潰すによって、暫く待ち呉れ」といわれたので二三十分待ち、竹皮包みを提げて、近江屋に引返したのは最早五ツ半(午後9時)時になっていました。
(五ッ半〔午後9時〕頃、岡本・菊屋は所用のため外出する。大坂出張から戻った海援隊士宮地彦三郎が近江屋を訪ね、階下より挨拶を交わす。『宮地彦三郎小伝』)
岡本が去り、峯吉が去ったあと、龍馬と慎太郎の間にどのような話があったのかは知る由もありません。 やがて案内を請う者があり、表の八畳にいた藤吉は、階段を降りて、これを出迎えました。(龍馬への来客は藤吉が取り次ぐことになっていた。)客は一人で、懐を探り名刺を出し「拙者は十津川郷の某と申すものなるが、坂本先生御在宿ならば御意を得たし」といったので、十津川郷中のものには中井庄五郎、前岡力雄を始め龍馬も慎太郎も共に相知れるもの少なくないので、藤吉も別に怪しまず、その名刺をもって階段を上りました。三人の刺客は其の後をひそかについて来て、藤吉が名刺を龍馬に渡して出てくるのを、一人が進んで斬りつけました。藤吉は創を被り六刀うけてついにたおれました。龍馬は慎太郎と共に、頭を燈前に出して名刺を眺めようとする刹那「バタリ」と大きな物音がしたので店頭で若者どもが戯れているのであろうと思い「ホタエナ」と一声叱咤しました。(藤吉が名刺を取次いだことは谷千城が慎太郎より聞いた処に拠る。峯吉はこれを否認し、藤吉は階段の上り口で斬殺されていたので名刺を取次いだ形跡はないといった。)この咄嗟に、二人の刺客は奥の八畳に跳び入って、一人は「コナクソ」と叫び慎太郎の後頭部を斬り、一人は龍馬の前頭部を横に払いました。龍馬は佩刀を後の床の間に置いていたのでこれを取ろうと、背向きになったところを、また右の肩先から左の背骨かけて大袈裟に斬られました。しかし龍馬は刀(吉行二尺二寸)を取って立ち上がりました。三の太刀は刀を抜く暇なく、鞘のままで受けましたが、この家の天井は西の軒下に至って低く、弓形になっていたので鞘の鐺(こじり)で天井を突き破りました。敵の刀は太刀折のところより六寸程鞘越し刀身を三寸ほど削り、流れてまた龍馬の前額を鉢巻なりに横に薙いだのです。ことに初太刀は脳漿白く汾出するほどの重傷であったので最早こらえられず「石川(中岡慎太郎の変名)刀はないか、石川刀はないか」と叫びつつその場に斃れ伏しました。
中岡慎太郎も佩刀を屏風の後ろに置いていたので、これも刀を取る暇もなく、短刀をとって立ち上がりましたが抜くひまもなく、鞘のまま渡り合いました。慎太郎は踏み込んで、奮闘しましたが初太刀の深手で進退思うようにならず、左右の手と両足とを斬られ、特に右手はわずかに皮を止めてほとんど切断されていました。終に眼がくらみ俯けにたおれましたが、賊はさらに二太刀ほど臀部骨に達するまで斬りつけました。(創は11ヶ所に及んだ)その痛みで慎太郎は蘇生しましたが、まだ死んだ真似をしていると賊は最早本望を達したと思い込みました。「もうよい。もうよい」との言葉を残して、階段を降り去りました。
しばらくして、龍馬もまた蘇生し、刀を抜いて燈火の前に、にじり寄り、火光に照らし「残念残念」といいました。なお慎太郎を顧みて「慎太、慎太。どうした手が利くか」といったので慎太郎は「手は利く」答えたところ、龍馬はなおも行灯を掲げて次の六畳に至り、手すりの所より「新助医者を呼べ」といいましたが、最早虚脱して、かすかな声で「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」との声を最後にうつ伏せに倒れてしまいました。その血は流れて欄干より下の座敷に落ちてゆきました。
慎太郎は痛みをしのんで中敷居を上がり裏の物干しの上に出て、案内を呼びましだが応えなく、更に屋根を伝って北隣の道具商井筒屋嘉兵衛の屋根に至り、救いを呼びましたが出てくる者がなかったので引返そうとしました。が両足とも非常に重傷であったので最早立つことも出来ずそのまま、その場にすくんでいました。
近江屋では、主人新助は、階下の奥の間にて、火鉢にあたっていました。その傍で妻女は四歳になる新之助とその妹とに添い寝していました。けたたましい二階の物音に驚き、龍馬の身の上に一大事起こったものと思ったので先ず急を土佐藩邸に告げようとして表に飛び出しましたが、刺客の仲間が表で立ち番しているのを見つけ引返して、居間に入れば、妻女も小児達も戦慄して悲鳴を上げようとしたので、新助は「声を立てると殺さるぞ、声を立つるな」と制し、布団を頭よりかぶせ、押さえつけておき、裏手より、裏寺町に抜け、蛸薬師より土佐藩邸に急を告げにゆきました。一番に馳せ付けたのは土佐藩下横目嶋田庄作でした。
左図:『坂本龍馬全集 第4版』816ページ、峯吉の回顧による遭難当時の部屋の様子)
これと前後して峯吉が帰ってきました。間口四五寸ほど開いて土間に見知らぬ下駄がたあるので、誰かまた来客でもあろうと思って内に入ろうとすれば、入り口の壁に沿って、一人の男が抜刀のまま立っていました。峯吉は驚いて蹴鞠のように一間余りも飛び退きました。彼方も身構えする様子に、表の光にすかして見れば、兼ねて見覚えのある土佐藩下横目嶋田庄作でした。「嶋田さんでは御座らぬか」といえば、彼方も「峯吉か、静かにせい、いま、龍馬がやられた、賊はまだ二階に居る。出てきたら斬ろうと待っている」という。峯吉はこんなことがあるとも知らなかったので「冗談はいはれそ。中岡さんも来て居らるる、わしは今頼まれて、軍鶏を買うて来たところだ」と答えるうちに、頭上の六畳にて(谷千城遺稿には藤吉は階上表の八畳に斃れていたとある)藤吉の唸る声が聞こえたので、さてはと思い耳を澄ますと、階上には他に物のけはいなし。最早賊は去ったものと抜き足して階段を上がれば、何やら足にぬめり付くものあり、生臭いにおいは胸悪くなるほど峯吉の鼻をかすめました。これは藤吉の血糊でした。と見れば次の六畳欄干のほとりには、孤灯明滅、影ほの暗いところに龍馬は血潮を浴びて俯きに伏していました。鬼気凄愴、陰森の気は壁にも浸み入るかと思われ、峯吉は思わず、ドッカとその場に座り込んでしまいました。恐る恐る行燈を携えて次の部屋を窺えば、血は畳を浸していましたが慎太郎の姿は見えません。幸いにも無事逃れたものと思いましたが隣家の井筒屋の屋上にて人のうめく声が聞こえたので、凝視すると慎太郎でした。
土佐藩政参与寺村左膳の当日の日記には以下のような記載があります。(意訳)
慶応3年11月15日
朝4時ごろから寺田ほか五人ばかり召し連れて四条の芝居見物に参る。自分は芝居見物が始めてである。(中略)随分面白く夜8時におわった、近喜まで帰るところ家来よりあわてた様子にて注進あり、子細は坂本龍馬ならびに中岡慎太郎 今夜8時ごろ両人四条河原町の下宿にいたところ三四人の者が参り、坂本龍馬に会いたいと名札を差し出したので、下男の者受け取り二階へ上がると、その三人が後からついて二階へ上がり矢庭に抜刀におよび坂本、中岡に斬りつけた。不意のことゆえ両人とも抜きあう間もなくそのまま倒れた。下男も共に切られた。賊は散々に逃げ去った。坂本は即死、中岡は少々息があったので療養に取り掛かった。たぶん新撰組らの仕業であろうとの報告。(『寺村左膳道成日記』)
11月16日
山田藤吉死亡。大坂に凶報達し、在坂の海援隊士、小野惇輔(高松太郎)、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、関雄之助(沢村惣之丞)や野村辰太郎らが、淀川を船で上り京都に急行しました。
11月17日
中岡慎太郎、絶命。関西近郊にいた海援隊士、小野惇輔(高松太郎)、関雄之助(沢村惣之丞)、陸奥陽之助(のちの宗光)、白峰駿馬、渡辺剛八、野村辰太郎、宮地彦三郎、竹中与三郎、島村要らが、幕府側の警戒網をかいくぐってぞくぞくと京都に到着します。夜になるとひそかに三人の葬儀が執り行われました。
(中岡慎太郎死去。夜葬儀が行われる。「清岡半士郎書簡」)
(龍馬・慎太郎・藤吉の3名、海援隊・陸援隊の合同葬にて東山の霊明神社境内に埋葬される。「海援隊日記」)
真犯人の自供
明治2年(1869年)11月9日、旧幕府軍衛鉾隊副隊長の今井信郎は、函館戦争で新政府軍に敗れ、降伏人として兵部省軍務局糺問所へと送られました。そこで訊問追求された際、坂本龍馬殺害を自白したため、翌3年2月22日に身柄を刑部省伝馬町牢に移され、取調べを受けました。
今井信郎(30歳)口書
10月中頃、与頭の佐々木唯三郎の旅宿へ呼び出され、私と見廻組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が集まった。
唯三郎(原文のまま)が申し聞くところ、土佐藩の坂本龍馬に不審の儀があり、前年伏見で捕縛された時、短筒を放ち伏見奉行所の同心2名打ち倒し、その機に乗じて逃亡していた。
現在、河原町三条下ル土佐藩邸の向かいの町家に滞在しており、今回は取り逃がさず捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わないとの御差図があり、一同は連れ立って出発した。
もっとも龍馬の旅宿は2階にあり、同宿の者もあるようなので、渡辺吉太郎、高橋安次~、桂隼之助が2階へ踏み込み、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所を見張り、救援の者が来ればこれを防ぐと手筈を定めた。
同日昼八ツ時(午後2時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後8時)頃再び訪れた。
佐々木唯三郎が先に入り、松代藩と偽名を書いた手札を差し出し、「坂本先生に面会を願いたい」と申し入れた。取次の者が2階へ上がったので、後から引き続いて、かねての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次~、桂隼之助がつけ、佐々木唯三郎は2階の上り口、私と土肥仲蔵、桜井大三郎は台所周辺を見張っていた。
奥の間にいた家人が騒ぎ立ったので、それを取り鎮めて階段へ戻ると、吉太郎、安次郎、隼之助が下りてきて、「龍馬の外に合宿している者がいたが、手に余ったので、龍馬を討ち取り、外2名も斬りつけ傷を負わせたが、生死の程はわからない」と報告した。「それならば仕方無い」と、引き揚げを唯三郎が命じたので、それぞれ旅宿へと帰った。
申 渡 庚午九月二十日
宮崎少判事達 静岡藩 元京師見廻組 今井信郎
小嶋中解部 岡部少判事 扱
その方儀、京都見廻組在勤中、与頭佐々木唯三郎の差図を受、同組のものと共に、高知藩坂本龍馬捕縛に罷り越 討ち果たし候節、手を下さずといえども、右事件に関係致し、加えて其後脱走に及び、しばしば官軍に抗撃遂に降伏いたし候とは申しながら、右始末不届きに付きっと厳科に処するべき処、先般仰せ出での御趣意に基き、寛大な処分を以って、禁錮申付る。
但、静岡藩へ引き渡し遣す。
右申渡趣受書申付る。
『兵部省・刑部省口書』(『坂本龍馬関係文書』)
上記のとおり、今井信郎は自身の供述により、明治3年(1870年)9月20日、禁錮刑を申しつけられ、龍馬、慎太郎、藤吉殺害事件は法的に決着しました。
参考
東山霊山(りょうぜん)墓地(東山区清閑寺霊山町)(霊山は山の名前)
文化6年(1809)国学者、神道教授の村上都愷(くにやす)が東山霊山「正法寺」の地面を買い取って神道葬祭施設「霊明社」を創設。仏葬が主流であった当時に神道葬葬祭の公明を唱えました。文久2年(1862)大津遊学中に死去した長州系長門清末藩の国学者船越清蔵を埋葬し、この頃から「志士の墓所」という側面を持ち始めたのです。元治元年(1864)6月、池田屋事件長州藩犠牲者が、7月には禁門の変犠牲者が霊明社墓地に埋葬されました。慶応3年(1867)11月17日には、15日に河原町「近江屋」で受難した坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉らが埋葬され、翌年7月19日に墓碑が建立されました。明治元年から3年にかけて招魂社がいくつも設置され、官費での招魂祭が行われました。明治8年には霊明社に祭祀されていた殉難志士は東京招魂社に合祀され明治10年社殿敷地を残して墓地は政府に没収されました。
その後墓地の管理は霊山官祭招魂社に移り、昭和14年(1939)京都霊山護国神社に社名を改め、戦後は宗教法人・神社本庁の包括下におかれ、国家の手を離れました。GHQ占領下においては京都神社に改称していましたが、独立後は元の社名に復しました。
霊明神社は今も当時の場所に残っています。龍馬らが埋葬されたときに通った二年坂から霊明神社へ向かう道は、龍馬坂と呼ばれています。
これにて「京都・龍馬の足跡を歩く」は最終回とさせていただきます。
1年にわたりのご愛読誠にありがとうございました!
通称「龍馬坂」へのウォーキングルート
京都府京都市東山区二年坂入口付近
- 京阪本線「祇園四条駅」下車。四条通りを東へ向かい、祇園交差点を南へ。
東山安井を超えると維新の道へ。 徒歩約25分。