TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 京の「町家」  > 【第8回】 京町家のデザイン (その2)路地【ろうじ】と辻子(図子)【ずし】

背景絵 京の町家
【第8回】 京町家のデザイン (その2)路地【ろうじ】と辻子(図子)【ずし】

かつての京都の町では『通り』に面して大店(おおだな)が店を構えていましたので、その碁盤の目状の通りに囲まれた中央には空白ができるわけです。第4回でお話しましたように、安土桃山の時代に、豊臣秀吉によって都市計画が行われ、「通り」から『路地(ろうじ)』や『辻子(図子)(ずし)』と呼ばれる狭い小路が造られました。、よって、その空地を有効に活用できるようになり、そこには、土蔵や茶屋、あるいは大店が抱える使用人や職人衆の借家が建てられました。
 『路地(ろうじ)』という呼び方は、もともとは人が歩く路の狭い部分を「ろじ」と呼んでいたことに始まったようです。やがて茶道が盛んになるにつれて、石灯籠(いしどうろう)、蹲踞(つくばい)などが設えられた庭を「路地」とか「露地」と呼ぶようになって、その庭に敷かれた飛石(とびいし)を歩いて茶室に向かうため、その路も同じように呼ぶようになったそうです。

 現在でも、紋屋図子(もんやのずし)、了頓図子(りょうとんのずし)、革堂図子(こうどうのずし)、膏薬図子(こうやくのずし)など、名前が残っているものもあります。中京区の先斗町(ぽんとちょう)から木屋町通までの間に幾本もある路地の入り口には「通り抜けできません」あるいは「通り抜けできます」という手作りの札がつけられていて、しかもちゃんと番号がついているんです。のぞいてみると、路地ごとの個性があって、その奥に住まう主の生活の様子が垣間見えてなかなかおもしろいものですよ。

 7月1日から始まった祇園祭も、17日の山鉾巡行でクライマックスを迎えました。
 この祇園祭を支える各山鉾(やまぼこ)町には、公の集会所である町会所があります。その横には路地があり、奥に大きな蔵が立っていて、町の共有財産である山や鉾の装飾品が収蔵されているんです。
 ところで、子供の頃から「なんで祇園祭の鉾(ほこ)に垂れ下がってるのは、ペルシャ絨毯(じゅうたん)なんかのヨーロッパのもんなんやろ?」という私には素朴な疑問がありました。普通に考えると、西陣織だと思いますよね。そこには、京都が都であったという絶対的な理由があったんです。
 16世紀後半から17世紀にかけて、日本では安土・桃山時代、ヨーロッパではポルトガル、スペインに始まる大航海時代なんです。博多、堺、長崎などの港には明(中国)、ペルシャ、インドなどからのいわゆる南蛮貿易のめずらしい商品がどんどん入荷してきます。当然のことながら、都である京都にそれらのほとんどが運び込まれるわけです。権力を持った武士、富を蓄えた商人たちはこぞって、これらの国際色豊かな装飾品を手に入れます。それが祇園会を支える商人達の目にもとまったということなんですね。これは、今の東京が、世界中の文化やファッションで溢れかえっているのと同じことなのです。

 勇壮に見える祇園祭ですが、控えめな京都人が一年に一度、自分達の感性と財力や権力など持てる力をすべて表現してきた祭りなんです。隣の町内に負けまいとする見栄が豪華絢爛なタペストリーや装飾品がつけられた山鉾として表現され、また町家の家々では通りに面した格子や戸を外して開け放ち、通りすがりの人にまで公開して隣の家よりも家は豊かであると自慢の屏風や工芸品が飾られ、自らの美意識を誇示しているのです。
 こんな話をすると、誤解をされるかもしれませんが、このような祭りの特徴はヨーロッパなどの古い都市でも見られます。これが、1000年続く正しい都市の繁栄の仕方であると、私は誇りに思い、毎年祇園祭にあわせて浴衣をあつらえています。

京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう

参考文献:
『京都の意匠 伝統のインテリア・デザイン』吉岡幸雄著 建築資料研究社
『京都の大路小路』千宗室監修 小学館
『京の町家考』京都新聞社編 京都新聞社

背景絵
無題ドキュメント