【第5回】京町家ともてなしの文化 京都には独特の「もてなしの文化」があります。もてなしといっても、かしこまったお客様に対するものだけではありません。人や物に対する立ち居振る舞いすべてにおいて「持て成し」が成立します。京都の人の物腰のやわらかさは、その点、じつによくできていて、普通に接していても、かなり丁寧に受け取られます。 さて、私は現在、下京区の島原に住んでいるのですが、この島原というのが、島原太夫道中で有名な京都で最古の花街なんです。京都市の案内看板によると、『豊臣秀吉が京都を再興するにあたり二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これがのちに六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)市街地の西の朱雀野に移った。正式には西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動がときあたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。』とあります。ものすごい強引なネーミングに、びっくりしますが、遠く離れた九州の島原の乱が、京都においても大事件だったことがうかがえます。
この揚屋建築「角屋もてなしの文化美術館」では、二階を特別公開されていますが、もてなしの間であるお座敷のデザインの斬新さ奇抜さ、またその技法には驚きました。聞くところによると、当時の島原の揚屋では、立地条件が悪いからこそ、他の花街と差別化するために話題づくりが必要でした。そこで、他にはない建築技法を使い、めずらしい仕掛けのあるお座敷そのものをもてなしの空間として提供したんだそうです。各部屋それぞれに贅沢な趣向を凝らしていて、その技術は大変高度で現在も修復方法がわからないものもあるとか。 このような「もてなしの空間」というのは、富裕な町衆の町家に同じように見られます。京町家=純和風のように思われる方は、現在市内に残されている規模の大きな町家のほとんどに、豪華な当代切っての最高水準のもてなしの空間(洋風の応接間)があることに驚かれます。京町家の空間構成にも、まず、もてなしの場を最高水準に考えるという文化が息づいていたのです。それはもちろん礼儀として相手を思いやりつつ、自分を見世(みせ)る独特の京都の文化ともいえるでしょう。 京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
|
|||||||