【第4回】店屋(まちや)と町家(まちや) 最近、とくに町家に関する特集記事をよく見かけますよね。ところで、この「町家」という言葉は、平安時代初期は今のような「おうち」のことを指しているのではなかったようなんです。公営の市場だった東市・西市という店舗施設を「店屋(まちや)」と呼んでいて、「町の家」というのは公共性の高い市場の施設のことでした。やがて、市の中心が町小路(現・新町通)に移り、通りに面して店舗が立ち並ぶという姿になりました。そのうち、通りが市の場として発達しはじめ、室町通、花屋町通、塩小路、針小路、油小路というような、そのまんまの日用品の名がついた通りの名前ができました。そのときに住居が商業機能もち、そこで「町家(まちや)」と呼ばれるきっかけになったそうなんです。 この当時は、街路に沿って町家が立ち並んでいて、その家並みに囲まれた内部は井戸、便所、物置、菜園などの共同広場になっていました。四角形のひとつの辺がひとつの町なので、共同広場は四つの町のコミュニティスペースとなっていました。この形式は、戦国時代まで残っていました。こういう風景はアフリカやアジアの集落で今でも見られます。 さて、現在の京都のような密集した町並みは、いつごろできたのかご存知だったでしょうか?それは、あの豊臣秀吉の都市計画によるものだったんですね。まず、戦国時代に荒れ果てた京都に聚楽第を建設し、街区の中央に小路をつくり、空地を活用できるように新しい町割りがなされました。それには、太閤検地による税徴集を明確にするため商業地と農業地を分離させたいという政治的な思いもあったようです。それでも、今日までつづく高密度な近代都市京都が形成されるための重要な役割を果たしたのはいうまでもありません。秀吉はまた、このころにお土居を造営して、寺町で三方を囲み防衛力を高めるとともに、身分や職業によって明確に居住地を定め、城下町としての新しい京都のまちづくりにも着手しています。それ以来、通りに沿って同業者町が形成され、お互いに関連する業種が集住するようになりました。秀吉がとても優れた都市計画家としての能力を持っていたことがわかります。 ところで、こんな風に商業の発達によって裕福になった庶民の暮らしにはどういう変化があったのかというと、当然住居様式に違いが見えてきます。部屋数が増え、規模が大きくなり、やがては通りに面さずに、貴族の寝殿造の邸宅のように、宅地の奥に主屋を建てるようになるというのです。なんだか、そういう気持ち、とっても私にはよくわかるような気がします。 京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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