【第3回】京町家が先か?京都人が先か? 私の子供のころは、おうちの前の通りで、子供達は日が暮れるまで遊び、母親たちはそんな子供達を見守るのも忘れるほどに井戸端会議に熱中していました。ところで、この「井戸端会議」というのは、その昔、通りにあった井戸の周りで女性たちが水汲みや洗濯などの家事をしながら話していたことから由来しているのはご存じでしたか? なぜか、うちの近所では電信柱にほど近く母親たちが輪をつくっていた気がしますが、似たような風景だったんでしょうね。 さて、現在では京町家といえば、そのひとつひとつの建築形態をいわれますが、中世から近代までは、「通り」と「町家」は切り離せないものとして存在していたんです。中世の『洛中洛外図』を見てみると、通りの真ん中には共同の便所や井戸、そして井戸の前には「物洗いの石」という大きな石が置かれて洗濯場となっていたことがわかります。通りは通行のためというよりは、むしろ情報交換のための公共広場の役割を果たしていたというわけですね。このような公共性のある通り、路地、河川などは、当時の言葉でとくに「公界」と呼ばれていて、都市の共同生活の場として、とても重要な役割を果たしていたようです。 やがて、このような通りと町家の関係は、町家の内部に取り込まれるようになります。その名も「通り庭(走り庭)」と呼ばれる土間の部分で、表口から裏口へ通り抜けができる通路であるとともに、各部屋に面しているので、住居の中でも公共性の強い部分と言えます。そこには、家族が共同で利用するダイドコや井戸など、かつて「通り」にあった機能がそのまま見受けられます。そういえば、私の子供の頃の記憶では、「通り」を「おそと」、それに対して家屋を「おうち」といい、屋内では「通り庭」を「土間」、対して床上の部分は「おいえ」といって、そのふたつの関係を似ているようでいて区別して表現していたような気がします。 ところで、この「通り庭」という言葉は、まさしく「通り」と「庭(にわ)」がくっついたものですが、「庭(にわ)」というのは、『何か事が行われる所。かつては神事・公事の行われる場所。(大辞林第二版)』という意味あいが大きいのです。今の感覚の木や草花が植えられた庭園は、「前栽」と呼ばれて区別されていました。一般的に、京の町家は「鰻の寝床」と呼ばれるように、通り庭に沿って店の間、ダイドコ、奥の間がつづき、奥へ深くのびています。この「通り庭」もまた、中戸によって店の間とダイドコの間で、店脇の「店庭」とダイドコ脇の「走り庭(奥庭)」にわけられます。店庭は接客や家業の作業空間として利用され、走り庭(奥庭)は、走り元と呼ばれる家人のプライベートな生活空間である台所などの家事作業に用いられました。また、食事の時には、家人はダイドコの床上、使用人は土間で、という目には見えない作法にもその空間は利用されていました。 このように京都においては、共同生活のために都市から住宅まで、「通り」という公の空間概念をうまく取り込んでいました。また、ご近所づきあいから、封建的な家族関係、主人と使用人の徒弟関係までというような、人間関係までもその空間によって形成されてきたというわけなんですね。はたして、「京町家が先か?京都人が先か?」というと、なかば強引かもしれないんですが、「京町家」で育つと、いわゆる「京都人」ができあがるのではないかなと、私は思います。 現在でも、京都に住んで、町家で生活してみると、自然にそのようなルールというものが身についてくるものです。そんな風に考えると、現代建築が持つ閉鎖的な空間構成が、京都の町並みを変えてきたように、京都に住んでいる人々をも変えてきたとも言えるのかもしれませんね。 京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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