京の町のあらゆることを徹底的にしらべあげる、恐れを知らぬ集団。それが京ノ探偵団だ。
依頼人からの要望に答えるべく、今日も町のどこかで活動している・・・
京福電鉄嵐山線とは?
1910年、嵐山電車軌道として四条大宮〜嵐山で営業を開始。2000年はちょうど開通して90周年のメモリアルイヤーとなった。京都では、嵐電(らんでん)とよばれる、こじんまりした憎い奴・・・そういえば、京都に走っている(走っていた)路面電車は、なぜ「〜電」とよばれるのだろうか?叡電しかり、今はなき市電しかり・・・愛称をつけることによって、閉鎖的な京都人が電車を身近に感じてきた姿が偲ばれるようである。
京福電鉄には、嵐山線と北野線の二路線が運行されている。今回は、全長7.2km、難読地名満載の嵐山線の謎を探索する!
嵐山(あらしやま)
全国的に有名な名勝「嵐山・渡月橋」への入り口。有名な渋滞スポットでもある嵐山観光で時間通りに行動するのなら、渋滞しらずの嵐電が活躍することだろう。駅名は、京都名物(?)標高375mの「嵐山」に由来すると思われる。余談だが、嵐山・渡月橋観光に来る人は、「嵐山」を単なる地名であり、本当に山があるとは思っていないとか・・・。いやいや、本当に山は存在している。桜・紅葉の名所として、春・秋には全国の観光客&修学旅行生が集結するが、以外と見落としているのは冬の嵐山。特に雪がつもった朝は早起きして一見する価値有り、である。
嵯峨駅前(さがえきまえ)
今人気の安倍晴明の墓所と言われる、「晴明塚」、トロッコ列車の嵯峨嵐山駅へのアクセスポイント。「嵯峨」という地名の由来にはいろいろな説があるが、愛宕山をはじめとする山の険しさを表す「さがしき」から来たという説が一般的。駅名は、旧国鉄「嵯峨駅」の前に嵐電の駅があることから嵯峨駅前、という駅名がついたと思われる。現在、JRとなった嵯峨駅は、改名して「嵯峨嵐山駅」に・・・嵐電の嵯峨駅前の名は、駅名の変遷も表している。
鹿王院(ろくおういん)
嵯峨北堀町にある、臨済宗の単一寺院に由来した駅名。鹿王院、ただしくは覚雄山大福田宝幢禅寺と称す。本尊は釈迦如来。遠景に嵐山を臨む閑静なお寺は、隠れた紅葉人気スポットでもある。
車折(くるまざき)
嵯峨朝日町にある車折神社に由来した駅名。後嵯峨天皇が嵐山におでましになった際、社の前で車の轅(ながえ)が折れ「車折大明神」の神号と正一位が贈られたため称するようになったとされる。現在では、商売繁盛・売掛金回収の御利益がある他、芸能の神様をまつった芸能神社が境内にある。有名芸能人の名が記された、約2000枚といわれる朱の玉垣は圧巻。境内の小石を持ち帰り、願いが叶えば倍の石を納める風習があり、本殿の前にはお礼の小石が山と積まれている。
有栖川(ありすがわ)
近くを流れる有栖川に由来。かつては「嵯峨野」という駅であったが、他府県からの観光客が駅名を見て「嵯峨野めぐりにいけるのね〜」との間違いが続発したために、改名されたとも。
有栖川は、大覚寺からの清らかな6.5kmの流れを持ち、最終的には桂川に合流する。数年前までは汚染が進んでいたが、周辺住民の努力によって川は浄化、渡り鳥も飛来するようになった憩いの場所でもある。有栖川の歴史は古く、徒然草にもその名が見られる。有栖は「荒樔(あらす)」「荒瀬」がなまったものとの見方が強い。
帷子ノ辻(かたびらのつじ)
もともと、カタとは丘山に沿う地形のことで、坂・崖を意味する言葉。また、「都名所図会」が上嵯峨、下嵯峨、太秦、常盤、広沢、愛宕などの別れ道なり」と示すように古くから分岐点としての役割を担う。現在も、この駅で北野線と嵐山線が分岐する要所となっている。地名の由来は諸説あるが、南へ向かう道がなく片側のみに分岐しているので「片平」から発生したとする由来、嵯峨天皇の皇后にあたる壇林皇后の嵯峨深山谷への葬送の際に、棺を覆った帷子の衣が風で落ちたところ、という二説が有力。
太秦(うずまさ)
1月2日に釿始めが行われる広隆寺や太秦映画村へのアクセスポイント。
太秦の地は、応神朝頃の朝鮮半島からの帰化人、秦一族の居住地として栄えた。日本書紀「雄略天皇十五年の条」に、秦酒公(はたのさけのきみ)が絹等をうずたかく盛って奉納したことから、禹豆麻佐(うつまさ)の姓を賜ったことに由来していると言われている。決して太った秦氏が住んでいたからではないので、あしからず。
#小学校の時に、独りはこういう誤解をしていた人がいたものである。
蚕ノ社(かいこのやしろ)
太秦森ヶ東町にある神社に由来。正式名称は木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。「続日本紀」にはすでにその名が記されており、秦氏が水の神・ムスビの神をまつったのに始まった、と考えられている。本殿の右にある摂社養蚕神社(こかいじんじゃ)は、養蚕・機織・染色の術に優れた秦氏にゆかりが深く、ここから「蚕の社」の通称が生まれた。境内にある元糺(もとただす)の池は、夏の土用の日に手足をひたすと、脚気・しもやけにならないという。下鴨神社の糺の森(ただすのもり)の名はこの池の名に発祥している。池の上段にある三方正面の石造の鳥居は京都三鳥居の一つとされ、三柱鳥居、三つ鳥居、三面鳥居とよばれている。三鳥居仲間は、京都御苑にある厳島神社の唐破風鳥居、北野天満宮にある伴氏社の鳥居である。
山ノ内(やまのうち)
「山ないや〜ん!」との声がきこえてきそうなのが、ここ山ノ内。
由来は、昔このあたりが「比叡山の飛領地」だったことから。
比叡山の山の内、山ノ内。なるほど。
三条口(さんじょうぐち)
三条通に面したこの駅。なぜ「口」がついているのかは疑問・・・探索の結果、三条通の東の入り口(三条口)は、三条大橋、ここ山ノ内は三条通の西の入り口(三条口)だったことが判明。
西院(さい)
よく、「さいいん」と間違って読まれてしまうこの駅。そう、阪急電車の駅は「さいいんえき」なのだ。では、なぜ嵐電は「さい」なのか?この地区、古くは、サイもしくはザインともよばれていたらしい。地名の由来は、淳和天皇の後院、淳和院(別名西院)があったことによると言われる。そのほかの説として、生界と死界の境目である、賽の河原があったというものがある。平安京においては、西大路四条をより西の一帯、つまり現在の西院(さいいん・さい)がその場所だった、とする説も根強い。
四条大宮
四条大宮は、東西の四条通と南北の大宮通の交差点にある駅。これは四条通りを通ってきた時によぶ呼び方で、大宮通りを基準に通行していると、同じ交差点でも大宮四条となったりもする。(四条大宮はだいたい四条大宮、ってよぶのだが・・・)
この顕著な例が、四条烏丸や四条河原町。両方、四条通以外の側からみると、烏丸四条、河原町四条になります。あと、上がる(北へいく)下がる(南へいく)西入る(にしいる、と読みます。よんで字の如く)、東入るなどの補足用語がつくことで、京都の中心部へは住所のみでたどり着くことができます。デジスタイルの事務局は、四条烏丸の交差点かから、東に少し入ったところにある、という感じになる。
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